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『チェンソーマン』の「わかる」が「わからない」奇妙な感覚はどこから来るか?「超単純な動機」と「仮面」

飯田一史ライター
集英社「週刊少年ジャンプ」『チェンソーマン』公式トップページより

「週刊少年ジャンプ」連載の藤本タツキによるマンガ『チェンソーマン』は、最新話が更新されるたびにTwitterでトレンド入りするほど話題を集めている。

 予想の斜め上を行く展開と、奇抜なデザインのキャラクターやクリーチャーの造形および画面構成、ちりばめられた謎ゆえに、感想や考察を交わし合うのが楽しみな作品になっている。

 しかし、むずかしい印象を受けるマンガかと言えば、そうではない。深読みしようと思えばいくらでもできる。だが一方では不自然なほど単純に設定されている部分があるから、多くの人が付いていける(週刊少年マンガとして成立する)。

 ここではそのアンバランスなバランスについて考えてみたい。

■どこが奇妙なほど単純なのか?

 奇妙なほど単純なのは、主人公デンジをはじめとするキャラクターたちの「動機」だ。

 デンジは唯一の友達だったチェンソーの悪魔ポチタと合体することで死の淵から復活してチェンソーマンとしての戦闘能力や再生能力を獲得する。そのときポチタは「私の心臓をやる。デンジの夢を見せてくれ」と語る。

 ではデンジの夢とは何か。

 何が動機・目標なのか。

 そう思って読み進めていくと「胸を揉みたい」という原始的な性欲なのである。デンジを見いだしたデビルハンターの女性マキマに対する性的欲求、素朴な恋愛感情が根本動機だ。ラブコメマンガなら性愛を第一に置くのはわかるが、世界を覆う悪魔の脅威と戦う人間たちのバトルマンガなのに、だ。

 マキマの命令でいっしょに行動・生活することになった早川アキは、しょうもない動機しか持たないデンジに対して、自身の過去の経験から「生き残ったのは根っこに信念があるやつだけだ」と語る(これはアキの上司である姫乃や、姫乃の師匠で、デンジの訓練も担当するジジイが語る「まともなやつはみんな死んでいった」という理解とまるで矛盾しているのだが、ここでの本題ではないのでさておく)。

 デンジは敵対する悪魔にすら語る「仲間といっしょに人間をすべて食べる」といった誰かと共有可能な夢を持たない。コミックス2巻でデンジは

「み〜んな俺んヤル事見下しやがってよお……復讐だの家族守りたいだの猫救うだのあーだのこーだの みんな偉い夢持ってていいなア じゃあ夢バトルしようぜ!夢バトル」

「ショボい夢しかねえけどテメエと同じくらい俺マジでやっからさ」

 と語る。

 たとえば『ONE PIECE』では「海賊王になる」が夢だが、少年マンガによくある「傷ついている人を助けたい」「友達や家族を守る」「世界を救う」「一番になりたい」「誰かのために」「もっと強いやつと戦いたい」といった動機をデンジは持たない。

 最初は個人的で即物的な動機だったものが社会的な動機へと転じる、といったこともない。一貫して「胸が揉みたい」「キスしたい」「死んだらマキマと旅行できないから倒す」。「食えて楽しければそれでいいのか?」と訊かれれば答えはイエスだ。マズローがさじを投げるかもしれないくらいに原始的な欲求しかない。

 デンジに限らず、戦いに耐えきれず退職予定だったあるデビルハンターが戻ってきた理由が「ボーナスをまだもらっていないから」だったりと、ほかのキャラクターも(もちろん全員ではないが)、状況に不釣り合いな即物的・原始的動機で行動することが際立っている。

 主人公の動機が一定以上の抽象度や社会性、利他性を持たない。これは少年マンガとしては特異だ。

■動機だけでなく、価値基準も異様なまでに単純

 本来ならば悪魔同様に狩るべき対象である魔人なのにデビルハンターをすることになった「パワー」に対して「魔人がデビルハンターやっていいのか?」とデンジは思うが、即座に「ま、いっか」と納得(1巻)。仲間が死んでも泣けない自分に気づいても「まいっか、楽しくねえから!」とそれ以上思考を深めることをしない(4巻)。元が人間だったゾンビを殺して心が痛まないのかと問われると「全然」と即答(5巻)。

 仕様としてセーブがかけられているかのように、思考が一定以上は深まらず、悩みはキャンセルされる。

 もっとも、手にした能力の代償としてそうなっている可能性も否定できないが、いずれにしてもデンジは自分や他人が「人間的かどうか」という点を一切気にしない。ロボットものや、人外の力を手に入れてしまった人間が「自分には心があるのか」「人間らしさとは」と悩むような展開は『チェンソーマン』にはない。

「深みがある」どころか、逆に浅さの極地を行くような動機や価値判断で突っ走る。

『チェンソーマン』は先行するエンターテインメント作品よりも複雑にする、本格化する、社会派的にすることで差別化するのではなく、動機を過度に単純にする、判断軸をよりバカにさせることで予想外の展開をつくりだしている。複雑な動機ではなく単純な動機なので、読んでいて驚きはしても「難しすぎて理解できない」ということはない。

 はたして即物的な動機だけで世界レベルの惨事を引き起こしている事象を解決できるのか? という実験として読めるおもしろさもある。

 おそらく、謎めいた世界観のまま、デンジが頭がよくて小難しいことを言うキャラだったら、脱落する読者はいたかもしれないし、それ以上に「ありきたり」という印象を与えて今のようにバズってはいなかった可能性が高い。

■バカのはずなのに、仮面状態になるから感情が読み取れない

 もうひとつ週刊少年マンガとしての『チェンソーマン』が特異なのは、デンジたちが悪魔の力を使って変身するとあたかも仮面を付けたような状態になり、表情がわからなくなることだ。

 デンジの頭部はチェンソーのかたちになって目は描かれない。デンジだけではない。たとえば彼に接近してくる少女レゼなども同様だ。

 普通、娯楽マンガをはじめとする映像メディアのエンターテインメントで大事なのは顔、とくに目の演出である。

 顔アップを連発する作品を「顔マンガ」と揶揄する向きもあるが、テレビドラマの『半沢直樹』を観てもわかるように、誇張された感情表現をさせて顔を大きく映すことは、非常に強い。受け手にキャラクターの情動を感染させることに有効な手段である。

 売れているマンガをぱらぱらめくって見てもらえればすぐにわかるが、9分9厘、顔をきちんと描いている。そして読者はその表情のニュアンスから、無数の微細な情報を受け取っている。わかりやすさが求められる週刊マンガで顔をちゃんと描かないのは、普通はマイナスである(むろん、ここぞというときに顔を伏せたり、背中を向けて語ったりするコマを入れるのは有効だが)。

 しかしチェンソーマン化したデンジは仮面をかぶったような状態になり、読者は表情から感情や思考を読み取ることが困難になる。敵対する存在も同様である。

 バトルマンガで、片方だけ表情がわからないのは、未知、不気味さの演出になるからいい。だがお互いに何を考えているのか、どんな感情を抱いているのかわかりにくくさせる演出は、基本的にはあまりやらないほうがいい。読者に負荷、フラストレーションを与え、描き手が伝えたいことが伝わらなくなるリスクが大きい。

 ではなぜ『チェンソーマン』では成立するのか。

 デンジがアホだからである。

 バカで単純なやつだという前提があるから、表情から感情が読み取れない造形になっても成立する。

 単純な動機の人間が感情丸出しの表情で行動すると、ギャグになりやすい(『チェンソーマン』ではゲロまみれのキスシーンなどがこれだ)。

 しかし、シリアスさが求められ、どう展開が転ぶかわからないスリルが必要とされるバトルシーンでギャグっぽく見えてはまずい。そうではなくて「わかる」ようで「わからない」くらいのほうが読む側のテンションは上がる。

 だからチェンソーマンの不気味で無機質な、表情から感情が読み取れない状態での戦闘は、感情丸出しのふだんのデンジの表情・行動とは異なり、読者に「何を考えているんだろう?(まあ、何も考えてないんだろうけど)」と理解と想像の喚起を両立させ、相手側も何を考えているのか見えづらいことで不気味さ――ある種の深み――を与える演出として成立する。

 良い意味でまともではない、センスの塊のような奇抜な作品だとして受容されている印象があるが、広範な読者に届けるため――を狙ってやっているのかはわからないが、結果としてそうなっている――の技術も兼ね備えているのが『チェンソーマン』だ。

 異常さを感じさせるレベルの動機・価値判断の「わかりやすさ」と、「わかりづらさ」を招くので普通は多用しない方がいい“顔を隠す”手法を組み合わせることで、エンタメマンガとして危うい均衡を実現している。

ライター

出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com

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