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【深読み「鎌倉殿の13人」】比企能員が源頼家の乳父に選ばれた裏事情とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
なぜ、比企能員は源頼家の乳父に選ばれたのか。(写真:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」12回目では、比企能員が源頼家の乳父に選ばれていた。なぜ、能員が乳父に選ばれたのか、その事情を深く掘り下げてみよう。

■源頼家の誕生

 寿永元年(1182)8月12日、源頼朝と妻の北条政子との間に待望の後継者たる男子が誕生した。誕生したのは、比企ヶ谷(神奈川県鎌倉市)にある比企能員の邸宅だった。

 幼名は万寿。のちの頼家のことである。当時、36歳だった頼朝にとって、頼家の誕生は何物にも代えがたい喜びだったに違いない。

 頼家の誕生以前、頼朝は鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)の若宮大路を整備し、安産祈願を行った。工事の際には御家人が動員され、段葛を作った。段葛とは若宮大路の一段高い道のことで、頼家の健やかな成長を願って築かれたという。

 頼家の誕生後、頼朝は乳父を比企能員に任せることにした。能員は、比企尼の実子ではなく養子だった。もちろん、頼朝が能員を指名したのには理由があった。

 比企尼は頼朝が伊豆で流人生活を送った際、仕送りをした恩人だった。しかも、頼朝の乳母を務めたのは、比企尼だった。そうした関係もあり、頼朝は能員を乳父に起用したのである。

 ほかに頼家の養育に際しては、能員の妻、比企尼の次女と三女らが関与した。つまり、頼家は比企氏一族によって育てられたのだ。これには、どういう意味があったのだろうか。

■乳父・乳母の重要な役割

 乳父、乳母は、幼君(この場合は頼家)の日常的な世話を担当した。それは衣食住だけではなく、諸儀式にまで及んだ。世話に際して重要なのは、乳父、乳母が経済的なサポートまでしていたことだ。比企尼が頼朝に経済的支援をしたのは、このことによる。

 もう一つの乳父、乳母の役割は、幼君の政治的、社会的活動を支援することだった。また、乳父、乳母の一族は、幼君のために命懸けで奉仕する郎党にもなった。幼君を積極的にサポートするのだから、必然的に乳父、乳母の発言権は大きくなった。

 このように乳父、乳母は、単に幼君を世話するだけではなく、その地位を獲得することで、政治的な地位や権限を高めていった。それは、幼君が成長しても続いた。つまり、乳父、乳母になることは、栄達の道でもあったのだ。

■むすび

 比企能員ら比企氏の一族は、頼朝の厚い信頼を得て、頼家の乳父、乳母を任された。このことにより、比企氏の一族は絶大な権力を獲得したのである。頼朝の死後、比企能員がさらに台頭することによって、比企氏の乱が勃発する。その点は、追々述べることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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