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【「麒麟がくる」コラム】織田信長が大坂本願寺攻めで用いた九鬼水軍の鉄甲船とはどんな船なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長が九鬼水軍に造らせたという鉄甲船は、このような感じだったのだろうか。(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

■九鬼水軍の鉄甲船

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のなかで、織田信長が九鬼水軍の鉄甲船で大坂本願寺を攻撃させた旨の発言をしていた。九鬼水軍の鉄甲船とは、どういう船だったのか探ることにしよう。

■木津川口の戦いと安宅船

 織田信長と大坂本願寺・毛利氏連合軍の重要な攻防戦が木津川口の戦いであり、2回にわたって両軍は激突した。中でも注目されるのが、天正6年(1578)の第2次木津川口の戦いだ。

 信長は定評ある毛利水軍を打ち破るため、伊勢・志摩の大名の九鬼嘉隆に命じて鉄甲船を6隻も造らせた。これは大型の安宅船と考えられているが、戦いは最終的に織田軍の勝利に終わり、大坂湾の制海権を掌中に収めた。しかし、この鉄甲船には、各説があって実態があまりわかっていない。

 安宅船は本格的木造軍船の総称で、戦国大名配下の水軍が用いた軍船だ。15世紀から16世紀にかけて、日本では本格的な構造船が造られるようになり、伊勢船、二形船などが生まれた。

 安宅船は、そうした大型商船の屋形などを堅木の厚板で囲い、正面に大砲、側面には弓矢鉄砲を備え、上甲板上には2層または3層の櫓を設置した。現在で言うところの「軍艦」ということになろう。

■史料から見た鉄甲船

 『多聞院日記』によると、鉄甲船は長さが12・3間(約21.8~23.6メートル)で、幅は7間(約12.7メートル)だったと書かれている。

 そのなかで重要な記述は、「鉄砲通らぬ用意」のために「鉄の船」にしたという箇所だ。つまり、船を鉄で覆ったのは、鉄砲による攻撃の被害を避けるためだった。なお、乗船した人数は、5000人というが、これは明らかに無理な数字である。6隻に5000人(一隻に800人程度)と考えるのが妥当だろう。

 この2年前、信長方の船団は、毛利水軍による「焙烙火矢(ほうろくひや。火薬を用いた兵器)」に攻撃され、炎上するという損害を被った。新しい鉄甲船はその反省を生かしていたが、すべてが鉄でできているのではなく、限られた箇所に薄い鉄の装甲が施されたと考えられている。

 尊経閣文庫の『信長公記』の写本によると、鉄甲船の長さは18間(約32.4メートル)で、幅が6間(約10.8メートル)と書かれており、こちらが妥当であるという。ただ、鉄甲船の姿については諸説あり、未だに全貌が明らかにされていない。現物が残っていないこともあり、いたしかたないところだ。

 オルガンチノの報告書によると、鉄甲船はポルトガルの軍船に類似しており、日本でも造られていたことに驚愕している。ヨーロッパの人が驚いているのだから、日本の造船能力はかなり高かったと評価されよう。

 ただ、実際に鉄の装甲があったか否かは、『信長公記』にも記されておらず、少々疑問が残る。しかし、全面が鉄の装甲ではなかったにしても、重要な部分で用いられたのではないかと推測される。

■結局、鉄甲船とは

 結局、鉄甲船は現物が残っておらず、ここまで見たとおり、史料の記述も十分とは言えない。それゆえ、実際には鉄の装甲が施されておらず、単に南蛮風の真っ黒な船だったのではないかとも指摘された。

 鉄甲船は毛利水軍を撃破するのではなく、毛利氏による大坂本願寺への兵糧運搬を阻止するのが目的だった。つまり、海上に浮かぶ、船の要塞的なイメージだったと指摘されている。毛利氏の水軍は鉄甲船の存在により、湾内に突入し難かったようだ。攻撃よりも、威嚇が目的だった可能性もある。

 信長の鉄甲船の問題は極めて難解であるが、現時点ではこのような指摘しかできないのが現状だ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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