2020年東京で世界のカメラマンを迎え入れる写真家・青木紘二さんの思い
専心するアスリートの姿は、心を打つ。写真が捉えた一瞬は年月を経ても輝きを放ち、私たちはスポーツの感動を鮮明に振り返ることができる。写真家・青木紘二さんは、夏冬合わせて18大会のオリンピックを取材してきた。そして「東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会フォトチーフ」の重責を担う。世界各国のカメラマンが円滑に撮影するための「ホスト役」だ。青木さんがこれまで取材した大会の思い出とは? 故郷・富山で開催された作品展の会場で、2020年東京オリンピックへの思いを聞いた。
1964年東京オリンピックでアベベを撮影
――2018年10月13日から11月25日まで、富山県高岡市のミュゼふくおかカメラ館で写真展「冬季オリンピック 報道の世界~1984サラエボから2018平昌まで~」が開催されました。作品を拝見し、オリンピック取材にかける青木さんの思いが伝わってきました。
子どものころ、スキーが大好きでした。猪谷(千春)選手の(1956年コルチナ・ダンペッツォオリンピック/男子回転)銀メダル獲得は、すごく嬉しかった。そうそう中学時代、走り幅跳びで校内1位になったことがあります。でも富山県内では10位だった。その時、「日本のトップ選手しか出られないとは、何とすごいのか!」と思いました。それがオリンピックを最初に意識した瞬間だった気がします。
私は日本人で最も多くのオリンピックを取材してきたカメラマンだと思います。すごく楽しい人生ですよ。こうやって(作品を)見ると、写真の撮り方が年々変わっていることに気づきます。むしろ、なるべく変化していきたいと思っています。並べてみるとオリンピックの歴史が分かりますね。
スポーツ専門のカメラマンだと思われていますが、広告から入ったんです。最初に行ったオリンピックは1976年インスブルック大会でした。プロになる前も含めると初めて見たのは、1964年の東京です。マラソンのアベベ(・ビキラ/エチオピア)。彼を撮りたくて、父からもらったカメラを手に、スタジアムに入る直前の最後のカーブでカメラを構えました。
感情が高ぶってしまうと、いい写真は撮れない
――今回の展示で、ゴール地点でのガッツポーズや表彰式など、報道カメラマンが密集する「お定まりのポジション」から撮影した写真は少ないように感じました。また、スケルトンの選手のヘルメットの絵柄を集めた作品はとてもユニークです。「独自の視点」はどのようにして確立されたのでしょうか?
今回の展示で、選手がメダルを首にかけたショットは、あえて外しました。個人的に好きな写真を選んでいます。カメラマンは、いい撮影位置を確保するのに苦心するもの。「早い者勝ち」の場合もあります。しかし、悪いポジションしか得られなくても諦めてはいけません。2002年のソルトレークシティ、フィギュアスケート女子シングル金メダリストのサラ・ヒューズ選手(米国)を撮影した写真がいい例です。私がいた位置から「天使の舞」を撮ることができました。
カメラバッグを置いて場所を確保したつもりで席を外したら、別のカメラマンがバッグを動かして私のポジションは奪われていた。腹立たしかったけれど、大切な試合を前にけんかをして感情が高ぶってしまうと、いい写真は撮れません。別の位置へ移りました。するとヒューズ選手は、私の目の前で美しい表情を浮かべてジャンプをしてくれたのです。ゆったりとした優美な動きを捉えることができました。
羽生、ビットら金メダルを二つ獲る人は「違う」
――フィギュアスケートのメダリストはどの選手もステキです。アスリートとしての魅力はもちろん、タレント性がある。表情も豊かで、見とれてしまいます。フィギュアを長年、どんな思いで見てこられましたか?
2006年トリノオリンピックでの荒川静香選手は、フリーの演技をする前、リンクへ出てきた時から「肝が座っているな」と感じました。そして金メダル獲得です。10年のバンクーバーを制したキム・ヨナ選手(韓国)は、氷の上を滑るのが本当に上手です。(エフゲニー・)プルシェンコ選手(ロシア)もそう。オーラがすごい。出てきただけで高い得点を付けたくなるようなスターです。
2018年の平昌オリンピックでは演技を終えた後の羽生結弦選手の表情を、たくさんの日の丸をバックに撮影しました。競技役員と仲良くなっておいて、通常では入ることのできない位置にちょっとだけ入れてもらって撮った。根回しや人付き合いが、写真の善し悪しにつながります。
そうそう、1984年サラエボと88年カルガリーの両オリンピックを制したカタリナ・ビット選手(旧東ドイツ)も印象に残っています。戦後にフィギュアのシングルで連覇したのはディック・バトン(米国/48年サンモリッツ、52年オスロ)、ビット、羽生の3選手だけ。ビット・羽生両選手の演技を見て、金メダルを二つ獲る人は「違う」と思いました。
長野オリンピックで、長年の夢だった公式写真集
――1998年長野オリンピックで金メダルに輝いたスキー・ジャンプのラージヒル団体・日本チーム、2014年のソチでフリーの演技を終えたフィギュアの浅田真央選手……。写真を見ると、「あの瞬間」を思い出します。ちょっと涙腺が緩んでしまう。当時の感動がよみがえります。
ジャンプの原田雅彦選手は1994年のリレハンメルでの失敗が長野の金メダルにつながった。浅田選手はショートプログラムで失敗したけれど、フリーで歴史に残る演技をしました。メダルを獲ること以上に記憶に残るドラマはある。そういう瞬間を撮影することも使命だと考えています。
長野オリンピックで、長年の夢だった公式写真集を作ることができました。私たちオフィシャルの仕事の命題は、「日本チームをいかにかっこよく撮るか」。競技以外の場面も含めてです。中でも開・閉会式の日本選手団にピントを合わせた写真は重要。そこで団長さんへ式が始まる前に、「会場に入ったら顔を上げて、楽しそうに歩いてほしい」とお願いしたりもします。
ドローンが初めて使われたのはソチ
――海坊主のように見えるスイマー、スーパーマンのように跳馬を超える体操選手など、カメラの広告写真は、「スポーツをどう撮るか」という工夫がちりばめられています。また、展示された作品を年代の古い順に見ていくと、カメラの機能の進化がひと目で分かります。
30年位前のスポーツ・ウエアを見てどう思います? 当時は「かっこいいなー」と思ったけれど、今のものとずいぶん違いますね。カメラの性能も技術も進化しています。フィルムを自動で巻き取るモータードライブを付けて撮ったのは1984年のロサンゼルスからです。オートフォーカスは2002年のソルトレークシティから。1998年の長野では手動でピントを合わせています。夏季のオリンピックでは、野球のピッチャーが投げる球をオートフォーカスなしで撮ることもある。動体視力は重要ですよ。
そうそう、長野オリンピックのメダルができ上がった時、その写真を撮影するのが大変だった思い出があります。黒い漆の質感を出すのが難しくて、下に敷くビロードの布を買いに、スタッフを走らせました。金・銀・銅のメダルを置いてある高さが微妙に違うの、分かりますか?
デジタルカメラは、2000年のシドニーから使っています。革新的な撮影機材の登場という点でいえば、14年のソチは、ドローンが初めて撮影に使われた大会となりました。
2008年北京オリンピックのプレス対応は完璧
――さて、2020年には東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。青木さんは「大会組織委員会フォトチーフ」という重責を担う立場にあります。過去のオリンピック取材の経験があるからこそ、自国の大会で世界のカメラマンを迎えるホスト役を任されたということですね。
オリンピック期間中、夏ならば23日間、カメラマンは働き詰めです。移動が続き、睡眠時間は毎日4時間程度。私はバスや飛行機の中では人としゃべらず、休息を取ります。一刻を争って仕事をするカメラマンへの対応は真剣さが求められる。本番までは各会場での撮影位置の決定や、受け入れ準備、移動手段や食事の手配などもせねばなりません。ソチではプレスへの対応が不十分でした。午後1時ごろにランチを食べに行ったら「売り切れ」と言われました。2008年の北京は完璧だった。国を挙げてやっているからです。
私がオリンピック取材の問題点やトラブルの事例を知っているからこそ、この仕事を任されたのだと思います。そしてこれまで一緒に取材をしてきた海外のカメラマンは、「日本だから、青木だから、しっかりやってくれるだろう」と思っている。プレッシャーがあります。責任重大です。
カメラマンは、いろんな場所に入り込んで写真を撮りたいものです。それは仕方ない。その際、ボランティアなどから「入らないでくれ」などと制止されることもあるはずです。私は、ボランティアの皆さんに、どういう態度で接するべきかを伝えています。「クレームが出なくて当たり前」という対応が求められる。暑さ対策などにも気を配らねばなりません。完璧な体制を整えるためには、十分な予算が必要です。
何かあれば、すぐ対応しなければいけない
私は「アフロ」という会社の経営者でもあるけれど、1人のカメラマンでもある。これまでオリンピック期間中は、経営のことを忘れて写真を撮りまくってきました。しかし2020年はIOC(国際オリンピック委員会)から、「大会期間中は何かあれば、すぐ対応しなければいけないから写真は撮らないでほしい」と言われています。でも合間を縫って何とか、シャッターを押したい……。そんな思いです。
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青木さんは、ファインダーを通して、オリンピックの歴史を見てきた。スキーのジャンプならば、板が平行だったころからV字になるまで。競技スタイルはどんどん変わり、ルールも変更される。そこには「政治的な問題」が絡むこともあるという。「日本の選手はルールが変わると、しばらくは落ち込んでいるが、それに合わせて鍛えていく」。変化を恐れない選手の姿に勇気づけられて進化し、視点を変え続けてきたのが、青木さんのカメラマンとしてのスタンスである。
一方で、変わらないのは「オリンピックは、とんでもなく遠いものだという憧れ」かもしれない。作品からアスリートへの敬意とエールを感じる。「裸足のアベベ」を撮影した日から56年。青木さんにとって2度目の東京オリンピック開幕まで、あと1年半余りとなった。
青木 紘二(あおき・こうじ) 富山県魚津市出身。青木さんは1976年からコマーシャルの仕事を始め、欧州を拠点に活動する。写真代理店「アフロフォトエージェンシー(のちのアフロ)」を設立。夏冬合わせて18大会のオリンピックを取材した。98年長野オリンピックでは組織委員会オフィシャルフォトチームのリーダーとして活動。2017年3月、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会フォトチーフに就任。株式会社アフロ代表。
※写真/筆者撮影