不登校体験談にわかりやすい“成功”は要らない。子どもの不登校に対する明快な“正解”なんてない
リアルがダメならオンラインで対処する
2016年からZoomを活用して、不登校のお子さんがいる家庭同士がつながるオンライン交流会を開催してきた団体があります。代表の植松奈々子さん(仮名)に、活動の狙いと、ここ数年の不登校をめぐる世の中の空気について聞きました。
いくら不登校に対する理解が進んだとはいえ、いざわが子が学校に行かなく(行けなく)なった場合、「自分の子が不登校であると認めること自体、親にとっては、その橋を渡るか渡らないかの大きな区切りのようなところがあります」と植松さん。自身、親として不登校を経験したことがあります。
そのときに、リアルな親の集いにいくつか参加してみて、救われる思いがした一方で、そのような場の雰囲気に、植松さんはかすかな戸惑いも覚えました。
その場にいること自体が「わが子は不登校である」と認識した証であるように感じたこと、なんとなくオピニオンリーダーがいてそこに同調するような雰囲気があったこと、感情の吐露が中心で具体的な見通しや知恵の共有になかなか至らないことなどが理由です。
そこで、みんながより安心して、対等に、自分の語りたいことを何時間でも話せる場を、オンラインでつくろうと思い立ちます。SNSで募ると、たくさんのひとが集まりました。それがオンライン交流会のはじまりでした。
植松さんたちの団体は、必ずしも学校への復帰をゴールとせず、「自分らしさを取り戻す」「すべての子どもが楽しく学び続けられること」を活動の理念にしています。そのための核となる概念が「学び環境のコーディネーション」です。
現在の社会では、子どもの育ちや学びの大きな部分を学校が担っています。しかしながら、学校というシステムとの相性が悪い子どもが少なからず存在するのも事実。その場合には、学校に頼らなくても、その子に合った育ちや学びの環境をコーディネートすればいいという発想です。
いまでこそ不登校という選択が社会にも認められてきていますが、ひとたび学校という環境から距離を置いた場合、社会として学び環境のコーディネーションを行うしくみが整っているとはとてもいえない状況であり、実際には家庭任せの部分が多くなります。
当然ながら保護者は、どこにどんな情報があるのかもわからないまま、初めての状況で初めてのことに取り組まなければいけません。それをサポートする第一歩としての存在意義が、植松さんたちの団体にはあります。
「いまの世の中、子育てや教育に関して親がなんでもかんでもまかされてしまっていると思います。何かあれば、『おうちでお願いします』って、ぽんぽんぽんぽん飛んでくる。それが当たり前とされてしまっています。先生も同じですよね。社会の課題をなんでも『学校でお願いします』って丸投げされる。そうすると、本当はいちばんわかり合えたらいい二つの立場が対立しちゃうんです」(植松さん、以下同)
社会構造に対する問題解決が、家庭と学校に押しつけられている。だけど、家庭と学校のどちらにも余裕がないから、本来は協力すべき二者が対立構造になってしまう。それがいまの不登校をめぐる不幸な状況だというのです。
「子どもを暇にさせちゃいけないと感じる親御さんも多い気がします。コロナ休校になったときも、このサイトが良かった、このコンテンツが良かったって、子どもの時間をなんとか埋めようとする動きをよく見ました。でもそういう感覚で子育てしていると、不登校になったとき、子どものすごす時間にぽっかりと暇ができちゃうわけだから、不安になって当たり前ですよね」
ぼーっとしている時間が悪だと、大人も思い込まされてしまっている社会。
「表面的に何もしていなくても、子どもはそこで内省力を育んでいたりするので、不登校の子どもたちに対しても、無理に外に連れ出そうとしたり、何かを学ばせようとしたりしないで、本人のペースを大事にしてあげてほしいですね。そういうことを理解してあげてほしいなと思います」
いまの子どもにいちばん足りないのは、ぼーっとする時間だと、私は思います。不登校は、ぼーっとする権利の主張かもしれません。
「不登校の親子でも、居場所への行き疲れというのがあるんです。月曜日はここに行くことになっていて、火曜日はあっちに行くことになっていて……みたいにスケジュールを埋めることで安心を得ようとするんですけど、どこかで無理をしているから、それ自体に疲れちゃうことがある。そういう体験をしてみて、自分で学べばいいのかもしれないですけれど……。子どもにコンテンツを与えたり、子どもの生活の時間割をつくることがコーディネーションになってしまったらまずいですよね。ディレクションになっちゃダメなんですよね」
明快さを求める姿勢こそが不登校を生む!?
しかし、新型コロナウイルスの出現によって社会のあり方が大きく変化してから、オンライン交流会はしばらくお休みをしているとのこと。なぜでしょう。
「コロナで一斉休校がありましたよね。子どもたちが学校に行かなくなって、あのとき世の中は大混乱に陥りましたよね。でも、もともと不登校だったひとたちは、それにずっと耐えてきたんです」
休校がいつまで続くのかわからない不安とストレスを想像してみてください。
「あのとき、学校の先生たちも、質はともかく、学校に通えない子どもたちに歩み寄っている感じがありました。それがきっかけで学校に通えるようになった子もいるんですよ。オンラインなら授業に参加できるって。でも、六月になって、学校が再開したら、また置いてけぼりの気持ちになっちゃった。持ち上げられて落とされたみたいに感じるひともいたわけです」
もともと不登校だった子どもやその保護者は一斉休校でダメ押しを食らったというのです。
「一斉休校が明けても、行事はなくなるし、部活もできないしってことで不登校自体も増えましたよね」
Zoomに代表されるオンラインインフラの拡充も手伝って、不登校の子どもたちの居場所を増やそう、多様な学びをサポートしよう、不登校について語り合おうという動きに注目が集まった一方で、そういう新しい場所で、むしろ傷ついてしまうひとたちも増えたことに植松さんたちは気づきます。
「そういう事例を聞くようになったんです。それでちょっと心が折れてしまったというか……」
Zoomが一般的になったこともあり、雨後の竹の子のように類似の交流会やサービスが立ち上がりました。でも、いくら善意があったとしても、不登校というセンシティブなテーマを語り合う場の雰囲気を、これまでの経験も知見もなく、一朝一夕でつくれるものではありません。
「すごくはっきりした明快な答えを与えてくれるようなセミナーが求められているようです。でもそのマインドこそが不登校の根本原因じゃないの?って」
ものごとには“正解”があり、その正解に向かって最短距離を最短時間で行くことが良いことなのだと思うそのマインドセットこそが、子どもの育つ環境を窮屈にし、不登校を生み出しているのではないかと植松さんは指摘しているのです。
「誰かの正解を自分の正解にしてしまうというか、たとえば著名人がこう言っているから大丈夫みたいなことにすがっても、結局どこかで行き詰まると思うんですよね」
そういうサービスが増えてから、植松さんたちの交流会に参加するひとたちのニーズにも変化が生じました。
「ここは発達障害の親の場なんですね、とか、ここの方々は何年も話し合っていらっしゃって、ここに参加しても不登校はすぐには解決しないってわかったのでもういいです、などと言われることがありました」
いまの学校のしくみにはうまく乗れない子がいる。だとしたら、別の形でその子の学び環境をコーディネートしてあげればいいではないか。ただしそれは、いちど道具を買いそろえればおしまいというような単純なことではない。子どもの状況に合わせて、継続的に、その都度柔軟に対応しなければいけない。時間がかかる。そのような状況で孤軍奮闘しなければいけない親同士が、継続的に支え合う場が植松さんたちの交流会でした。
しかし、その全体構造を理解しない“一見さん”が増えたのです。
しみじみとした地味な幸せへの感受性
「チクチクする感じがあって、しばらく様子を見ようということになりました」
それが新型コロナウイルス感染拡大の最中のこと。不登校に対する社会的な注目が集まり、理解も進んだ。それは結構なこと。しかし一方で、急激に当事者、親、関係者、支援者などの“プレーヤー”が増えたために、コミュニケーションの混乱が生じているというのです。
「メディアで取り上げられる不登校経験者のロールモデルにも違和感を覚えます。不登校だったけど一流大学に行けましたとか、留学しましたとか、プログラミングが大人顔負けです、とか。その子が自分らしく安定して暮らせるようになりました、で十分でしょう。どうしてもわかりやすい“成功”を求める風潮がありますよね。それを表に出しているのが親とか支援団体だったりであることも、そこにたくさんの称賛が集まることも気になります。子どもが大人の承認欲求の手段にされているように感じてしまうのです」
スポットライトを当てられて世間からの拍手喝采を浴びるようなひとをロールモデルとする教育観がいまだに世にはびこっています。それをメディアが持ち上げます。しみじみとした地味な幸せに対する社会的感度がどんどん鈍くなっていきます。そんななかで、子どもがただ自分らしくあることを認められづらくなっていく。
でも不登校を経験すると、それまで自分がもっていた常識や思い込みや信念が根底から揺らぎます。それらが虚構だったことに気づき、虚構を取り払ったその下に、子育てや教育の真髄を見出します。子どもを育てるうえで、何をいちばんに守るべきなのかがわかってきます。親としての目が開く瞬間です。
いちどは底をついてこそ、ようやく、ありのままのわが子をありのままに見ることができるようになる。そういう変化を、中学受験の泥沼にはまって苦悶する親にも、教育虐待の加害者になってしまった親にも、私は取材を通して見てきました。こうして、しみじみとした地味な幸せへの感受性が高まります。それはまるで、親自身の人生のなぞり直しのようでもあります。
植松さんの団体は、便宜上「不登校支援」を掲げてはいますが、不登校に限らず、学びの環境整備が必要な子どもや家庭への支援を広く行う団体として認知され、情報を発信する方法を模索中です。しかしいまは表立った活動を控えているので、ここではあえて団体名を伏せました。
※拙著『不登校でも学べる 学校に行きたくないと言えたとき』(集英社新書)から抜粋・再編集しています。ツイッターで「メディアで取り上げられる不登校経験者のロールモデルにも違和感を覚えます。不登校だったけど一流大学に行けましたとか、留学しましたとか、プログラミングが大人顔負けです、とか。その子が自分らしく安定して暮らせるようになりました、で十分でしょう」の部分を抜粋して投稿をしたところ、反響が大きかったので、前後関係がわかるように、この記事を掲載しました。