Yahoo!ニュース

元甲子園優勝投手にして「いてまえ打線」の主力打者、吉岡雄二、「不思議の国」のメキシコ野球を語る

阿佐智ベースボールジャーナリスト
メキシコでプレーした経験をもつ吉岡雄二・富山GRNサンダーバーズ監督

不思議の国のメキシコ野球

 地球の裏側で展開されるメキシコ野球は、吉岡いわく「困ったことをしない野球」。まさに「ラテン系」だった。とにかく打って打って打ちまくる。打ち負けたらその日のゲームは負け。バント、盗塁、エンドランのサインは一応あったが、ベンチワークより選手のプレーで試合をものにしようとする、日本とは異質の野球だった。メキシコでプレーする選手の視線の先にはアメリカがある。彼らは国境を越え、ビッグマネーを手にするため、自らのポテンシャルを最大限ゲームで発揮しようとする。ベンチワークはしばしばその妨げになるのだろう。

とは言え、メキシコの「ナショナルリーグ」としての性格ゆえ、球団の第一目標は、リーグ制覇だ。選手を育成してアメリカに「売る」というのは二の次、三の次である。メジャーリーグという「目の上のたんこぶ」を前に、メキシカンリーグは微妙なバランスの上に成り立っていた。

「だから、メキシコ人がアメリカの球団と契約する場合も、ルールがあるんですよ。勝手に行っちゃうと戻れないとか。球団にすれば、移籍金をしっかりもらわなければなりませんから。アメリカで契約できなかった選手がこっちに来るんですけど、そうなるとメキシコ人がはじき出される。だからもう、いつ切られるかわからない。給料は月給提示ですけど、実際は2週間ごとの支給。でも、毎日いつダメって言われるかわからない。突然クビになれば、給料は日割りで支給されるだけですから」

 1シーズンは身分が保証されている日本とは違い、いつリリースされるかわからない過酷な環境の中、吉岡はシーズンを乗り切った。残した数字は、82試合で78安打、打率.280。しかし、肝心のホームランは5本に終わった。

「何ですかね。最初のほうにポンポンと出たんですよ。チームメイトも喜んでくれたんですが、その後、出なくなりましたね。でも、向こうの野球に慣れようとする気持ちが大きかったんだと思います。結果出さないとクビになりますから。ホームランよりヒットという意識だったんでしょうね。もともと、長打を狙って打つタイプじゃないので。どっちかというと、うまく捉えれば長打になるって感じでしたので、長打を狙ってという打ち方は日本でもしてなかったんです」

 日本のNPBより2ランク3ランク下だと見られているメキシカンリーグだが、日本人がすぐに通用する場ではないと吉岡は言う。

「レベルに関しては、若い選手も試合に出てきますから、総じてピンキリですね。チーム内でもすごく差が激しいし、リーグ全体でも強いチームと弱いチームの差は日本以上にありました。ただ、パフォーマンスレベルの高い選手は多かったです。よく打高投低なんて言われますが、すごくいいピッチャーもいましたよ。メキシコシティなんかの強豪チームのピッチャーは総じて良かったです。それに打つ方でも、とくにメキシコシティは標高が1500メートルくらいあるんで打球が飛びました。みんなこの球場は打球が飛ぶって言ってましたけど、そのとおりですね。もう『打感』が違いました。当時の球場は人工芝だったんで、打球も速くなるんで、打者にとっては良かったですね。確かにこれは、打率残るなって思いました。だから、ピッチャーは大変だなと思うんですけど、メキシコシティはピッチャーに元メジャーリーガーもいましたし手強かったです。バッターでも、日本に行ったら面白いだろうなって思うような選手もいました。基本、まっすぐに強い選手が多かったです。それでも、変化球にうまく対応するバッターもいましたから」

 メキシコには、メジャーでプレーしていた選手も多い。なかには主力として一時代を築いた者もいる。しかし、吉岡には、そういうビッグネームと相まみえたという印象は残っていない。

「僕が覚えてないだけかって感じですけど。あんまりよく分かんなかったですね」

メキシコ独特の習慣も面白かったと吉岡は言う。

「向こうではバットボーイの存在感が大きいんですよ。試合中もバッターボックスの後ろに陣取っているくらい。僕ら選手の用具の管理をしてくれて、チップで稼ぐんですよ。メキシコシティだと、ホームチームの人がビジター側にも来るんですよ。スパイクだとかグラブだとか、全部ピカピカに磨いて、次の日に用意しといてくれるんです。それで、3連戦が終わった時に、みんなチップをまとめて渡すんですよ。メキシコシティはそのチップの相場が高いんですよね。(ホームの)ラレドの3、4倍ぐらい。仕事的にはみんなやりたがるポジションだと思いますよ」

 当時、メキシコでプレーする日本人選手は珍しかった。日本人にとってもメキシコ野球は未知のものだったが、メキシコ人にとっても日本は遠い存在だった。吉岡もそんなメキシコ人たちからのお決まりの洗礼を受けた。

「もう『チーノ(中国人)』ですね。わかんないじゃないですか、アジア人。みんな一緒に見えると思うんで。それでちょっと、イジられるっていうか、スタンドからはヤジられてましたね。むこうにも韓国人と中国人はいると思うんですけど、日本人って当時あんまりいなかったんじゃないかな。だから、基本どこ行っても『中国人か?』って聞かれましたね。それで日本人だって言うと、驚くんですけど、やっぱり『チーノ』(笑)。でも面白かったですよ、メキシコ人。今までと違う経験だから面白く感じただけだったのかもしれませんけど」

 吉岡がプレーする少し前のメキシコのプロ野球は、ファンと選手との距離が驚くほど近かった。日本人などの「珍客」が試合前にスタジアムを訪ねると、選手や球団スタッフがフィールドに招いて入れくれたりすることは珍しいことではなかった。ゲームが終われば、ファンがフィールドになだれ込むのはお決まりのシーンだった。選手たちも、そんなファンたちのサインの求めに嫌な顔ひとつせず応じていた。しかし、吉岡がプレーした当時は、もうそのようなシーンはメキシコ野球から姿を消していたようである。

「球場内では、フェンス越しにスタンドのファンに声かけられたり、サインしたみたいなことはあったんですけど、それ以外はファンとの交流はほとんどなかったですよ。やっぱり危険でしょ。球場外でのイベントとかはなかったですよ。だから、シーズン中はもう球場とホテルの往復だけでした」

 メキシコと言えば、好選手は、メジャーをはじめ、日本、韓国、そして決して好待遇というわけではない台湾に引き抜かれていく貧乏リーグの国というイメージがあるが、報酬は決して悪いものではなかったと吉岡は言う。

「トップのメキシカンリーグだと、他の外国人選手の中には月2万ドルぐらいもらっているやつもいましたから。アメリカと一緒で、遠征の際はミールマネーも出ました。でも、契約通り給料が出ないのが問題なんです。僕の場合も2カ月近く出なかったです。その間はミールマネーだけは出るんで、食うには困らないんですけど、結局、その最初の2カ月分たまってる状態でシーズンが終わったみたいな感じでした。外国人選手みんなそうで、ギャラ出るまで帰らないって、シーズンが終わってからも何日か居座ったんです。それでようやく残りをもらいました。でも、帰りの飛行機代が出なくて(笑)。結局それはあきらめて帰国しました」

メキシコのマイナーリーグで送ったラストシーズン

メキシコでの体験を貴重なものだったと振り返る
メキシコでの体験を貴重なものだったと振り返る

 メキシコでプレーした日本人選手のほとんどは、1シーズンでメキシコを去る。ところが、吉岡は1シーズンを乗り切った後、メキシコでのプレー継続を決断した。

 メキシコのプロ野球のシステムは、日本やアメリカとは大きく異なっている。夏季に行われるプロ野の他に、「冬野球」、いわゆるウィンターリーグも行われているのだ。おまけに夏季に実施される全国リーグのメキシカンリーグよりも、アメリカでプレーしている選手も加わり、球団数も少ない、冬季に行われる太平洋岸の地方リーグであるメキシカン・パシフィック・リーグの方がプレーレベル、人気とも高いというのが、我々には理解しにくいところだ。その上、夏冬とも、トップリーグの他、マイナーリーグも存在し、ある意味、プロ生活を継続するにはもってこいの環境でもある。

 吉岡は、メキシカンリーグのシーズンが終わった後、一旦アメリカでの拠点だったロサンゼルスに戻り、しばしの休息をとった後、再びメキシコへ渡った。

「最初の冬は、メキシカン・パシフィックではなく、1つレベルが下のリーグでプレーしました。シーズン途中に来た通訳の子がいろいろ動いてくれて、契約を取って来てくれたんです。当時は、アメリカのサンディエゴとの国境の町、ティファナにチームがあって。そこでプレーして、年越して2月くらいかな。一旦帰国しました。だから1年くらい日本に帰ってなかったんですね。それでまたメキシコに行って、しばらく契約できなかったんですけど、その間は、オアハカだったかな?メキシコシティ・ディアブロスのアカデミーでひと月くらいコーチをしてましたね。それで結局、2年目の夏のシーズンは、ティファナから車で1時間くらいのところにあるエンセナーダという町のチームでプレーしました」

 「野球の果て」とでもいうべき、メキシコの田舎リーグでプレーしている間に、吉岡の心境に大きな変化が起こった。

「この年も最初は、夏のシーズンが終わったら、冬もプレーするつもりだったんですけど、だんだん、もうこれ以上やっててもっていう感じになってきたんです。なんで俺、ここでやってんのかなって。そういう思いがよぎってきたんですよね。要するに、もうやり尽くしたってことですね。もう次に行かないとなっていう気持ちになってきたんです」

 楽天を自由契約になった後、ようやく見えかけてきた「野球の面白さ」を探すメキシコの旅だが、それが見えてきた瞬間に夢から覚めたということだろうか。家族を残してのメキシコでの「延長戦」に幕を下ろすべき時がきたことをデコボコだらけのフィールドで吉岡は悟ったようだ。

 そんな時、吉岡のもとに届いたのが、近鉄時代の同僚、星野修からの誘いだった。近鉄からともに楽天に移籍した星野は、2005年限りで現役を引退し、コーチに転身していたが、この2010年シーズン限りで楽天を退団し、四国アイランドplusの愛媛マンダリンパイレーツの監督に就任することになっていた。独立リーグの監督を引き受けるにあたって、星野はメキシコでプレーする元同僚に白羽の矢を立てた。吉岡に断る理由はなかった。

「ちょうどこの先どうするのって考えてたところだったんで、これがタイミングかなと思って。日本に帰ることにしました」

 2011年シーズンから3シーズン、愛媛で打撃コーチを務めた後、ルートインBCリーグ(当時)の富山GRNサンダーバーズに監督として招聘された。その経験を買われ、2018年からは北海道日本ハムファイターズの二軍打撃コーチとしてNPB復帰。2021年からは再び富山の監督として若い選手たちの指導にあたっている。

 「プロ未満」の選手たちの指導に悪戦苦闘する毎日を送る吉岡にメキシコでの2シーズンを振り返ってもらった。

「面白かったですね。言葉だったり、環境とか、日本とは全然違うんですけど、日本であったしがらみがなくて、いい意味で新鮮な感じで野球ができましたね。また何かこう、プレーしていて感じ方が違ってました。最後の方は、俺、なにやってんだろうって頭をよぎることもあったんですけど、あんだけ長時間移動して、そういう中で試合してとか…。その一方で、この歳でメキシコでプレーしに来る奴なんてまずいないだろうななんて考えたり。それも野手で。だから、やってる時はシーズン最後までやり切ろうと思ってましたね。それでなにを得られるのかなんて、もちろん当時は分からなかったですけど、途中で契約切られたら仕方ないんですけど、そうでない限りはとにかくやり切ろうと思いました」

そんなメキシコでの経験は、決して無駄ではなかったと吉岡は感じている。

「僕は今、独立リーグというところで指導しているんですけど、最初にこの富山で監督した時は、途中からけっこう外国人選手が入ってきたんです。多い時は5、6人いたと思います。彼らも当時の僕と同じような立場ですよね。ここも通訳がいるわけじゃないですから。だから僕が困ったのと同じような思いはしないようにしてあげようとしました。それもやっぱりあの経験があったからでしょう」

 決して恵まれていると言えない場所での経験は、日本人選手の指導にも生かされているとも言う。

「僕はアメリカの野球は知らないんですけど、移動なんかを考えた時、独立リーグでも日本はやっぱりすごく恵まれてるなと思います。だからお前らは駄目なんだ、なんてことは言うつもりはないんですけど、メキシコでの経験は伝えることはありますね。指導法に関しては、特にまねたりはないですけど、選手への接し方とかそういう部分は、参考にしています。スタンスとしてはなるべく対話を大事にしていますね。ラレドの監督がそんな感じでしたから。もちろん向こうの監督にもいろんな監督がいて、エンセナーダの監督さんは、いつもけっこうカリカリしてましたね(笑)」

 吉岡の存在が影響しているのかはわからないが、近年多くの選手がメキシコをプレーの場に選んでいる。今後もこの流れは止むことはないだろう。後に続く者へなにか伝えたいことがあるかと尋ねると、吉岡はこう返してくれた。

「個人的には、野球を続ける選択肢のひとつに入れても面白い国だなとは思います。メキシコって認知度的にはまだまだ低いと思うんですけど、行ったら行ったで新鮮な刺激は受けられると思います。ただ、どういう気持ちで行くかっていうのは大事でしょうね。ただ、NPBでいったん駄目になって、メキシコからまた戻るっていうのは、ピッチャーならあるかなと思いますけど、バッターは難しいかなと思います。でも外国人選手の場合は、メキシコでプレーしてまた日本に戻ってくるのは多分あると思いますよ。でも、日本人野手が、メキシコでプレーして戻るっていうのは、けっこうハードル高いと思うんですよね。最後にプレーしたエンセナーダでは、岡本直也っていうピッチャーと一緒だったんですよ。彼はメキシコの後、アメリカのマイナーでプレーして、そのあとヤクルトでしたっけ。NPBの球団と契約取ったんですよ。そういうケースはやっぱりあるんですけど。野手はほんと、年齢が若ければってところになってしまうのかなと思いますね」

 現役生活の最後に「野球の面白さ」を求めてプレーしたメキシコだが、今となってはもう、遠き日の思い出となっている。「古巣」の動向を追ってみることもない。

「2年目にエンセナーダでやっていた時は、通訳の子がラレドの様子をチェックしてくれて、チームメイトの動向などを教えてはくれましたけど。もう野球でメキシコに行くことはないでしょう。遊びには行ってみたいなとは思いますけど。でも、ヌエボラレドには行かないでしょうね。何もないところですから。行くならカンクンかな。当時も、通訳の子がカンクンに住んでいましたんで、シーズン終わってからは毎年そいつの家に転がり込んでいました」

 この春のWBC準決勝で侍ジャパンと死闘を演じ、注目を集めた知られざる野球大国・メキシコ。サボテンが生い茂る大地で10数年前にプレーした吉岡は、メキシコにおける日本人選手のパイオニアと言っていいだろう。

 吉岡が率いる富山GRNは石川ミリオンスターズを迎え、新生・日本海リーグの開幕戦を明日29日、黒部市・宮野野球場で行う。

(写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

阿佐智の最近の記事