薬物がなくとも起訴される「物なし事件」とは
■はじめに
先日、鹿児島県警の元警察官が麻薬特例法違反で起訴されたというニュースがありました。報道によると、起訴内容は次のようなものでした。
私の目を引いたのは、「『大麻のような物』とは何か?」とか、「警察官だからあいまいな物でも処罰されるのか?」とか、「もっとはっきり『大麻』と書いてほしい」といったようなSNSでのコメントでした。
この事件は、問題になっているのが大麻取締法ではなく、麻薬特例法という特別な法律であり、同法は譲り受けた物がはっきりと「大麻」であったと証明できなくとも立件できるという特別な法律なのです。極端な場合は、薬物じたいが存在しなくとも起訴される場合もあります。このような事件が、「物なし事件」といわれています。以下、これについて説明します。
■麻薬特例法の背後には規制薬物についての国際条約がある
現在、世界の薬物規制についての基本的な枠組みとなっている基本条約は、次の3つの条約です。
- 第一は、1972年の議定書で改正された1961年の麻薬に関する単一条約(単一条約)で、大麻(および麻薬、あへん等)の栽培、所持、消費、販売等が禁止されています。この条約はそれまで各国が個別に締結していた多くの条約や協定等をとりまとめ、国際的な麻薬管理体制を整理統合するための基本的な条約となっています。この条約によって大麻を危険薬物とすることが世界に強くアピールされました。
- 第二は、1971年の向精神薬に関する条約(向精神薬条約)です。上記の単一条約が規制対象としている物質以外の幻覚剤、鎮痛薬、覚醒剤、睡眠薬、精神安定薬等の乱用を防止し、これらの物質の国際的な統制を実施するために締結されました(このときに合成麻薬が違法薬物のリストに加えられています)。
- そして第三は、1988年の麻薬及び向精神薬の不正取引の防止に関する国際連合条約(麻薬新条約)で、国際的な麻薬カルテルの台頭への対策等が取られています。この条約では、上記の2つの条約に規定されていない事項、とくに(1)薬物の不正取引から生じる収益の剥奪といった薬物不正取引の経済的側面からの防止策、(2)薬物犯罪取締りに関する国際協力の強化、(3)麻薬等の不正な製造に用いられる化学薬品の規制措置などが盛り込まれています。
そして本稿で関係するのは、この麻薬新条約が(日本を含めた)締約国に対してその実施を可能とすることを義務づけているコントロールド・デリバリーという捜査手法です。
■コントロールド・デリバリーとはどのような捜査手法なのか
コントロールド・デリバリーとは、捜査機関が、禁制品(規制薬物や銃器など)を発見しても、その場ですぐに摘発するのではなく、十分な監視の下にその搬送を許して、受け取り先などの関係する被疑者に物を到達させて犯罪に関与する人物を特定・検挙する捜査手段のことです。「監視付移転」とか「泳がせ捜査」といわれることもあります。
現在は、薬物犯罪を対象とした麻薬特例法と、銃器犯罪を対象とした銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)で認められています。
コントロールド・デリバリーには、(1)禁制品をそのまま搬送させるライブ・コントロールド・デリバリーと、(2)万一の場合を考えてあらかじめ禁制品を抜き取り、小麦粉や砂糖などの代替物を入れて搬送させるクリーン・コントロールド・デリバリーという2つの手法があります。問題となるのは後者です。
クリーン・コントロールド・デリバリーを実施する場合、規制薬物は捜査機関の手によってまったく無害な物とすり替えられ、容疑者がそれを受け取る荷物には規制薬物は入っていません。従来の法制度ではこのような場合について容疑者を処罰することは理論的に困難で、犯罪の成立が難しい以上、もちろん逮捕することもできませんでした。そこで次のような規定が麻薬特例法の中に設けられました。
つまり、客観的には規制薬物でない物を、薬物犯罪を犯す意思で、規制薬物として輸入し、輸出し、譲り受け、譲り渡し、あるいは所持するといったような行為が処罰されることになりました。
■薬物がなくとも起訴される「物なし事件」とは
そもそも麻薬特例法第8条の規定は、第5条(下記参照)の「業として行う不法輸入等」の罪とセットになっている規定です。つまり、規制薬物の取引であってすでに時間が経ってしまい、現物が存在せず、鑑定もできないような場合であっても、それによって得た不法収益等につき、第8条を基礎に没収し、あるいは不法収益等隠匿罪を適用することが可能となるわけです。
しかし、実務では、第8条が規制薬物でない物を、規制薬物との認識で譲り受けたりすることを要件としていることから、業として行なう第5条違反の事案だけでなく、規制薬物であることが証明できないような場合も文言上は含まれることになり、第8条単独の適用を排除するものではないと解され、第8条の規定を第5条と切り離した拡大適用がなされています。これが、いわゆる「物なし事件」と呼ばれる場合です。冒頭の事件でも、半年以上も前のことであり、物じたいがおそらくもはや存在せず、その鑑定ができなかったのではないかと思われます。
ただ、第8条を無制約に拡大して適用すると、この種の事犯についての捜査がずさんになることには注意が必要です。
もともと主に想定されている大量の薬物に係るクリーン・コントロールド・デリバリーの事案について、法定刑に罰金刑も予定されており、比較的刑が軽いことを考慮すれば、起訴価値があるかどうかは個々の事案について慎重に判断すべきだということは当然です。
また、第8条は、規制薬物であると認識し得る客観的状況の下に、規制薬物であると認識して譲り受けたことが明確であることが必要だと思いますので、たとえば、容疑者の交友関係、動機、携帯電話の通話履歴やメモ、行為時の客観的な状況など、十分な情況的証拠が必要で、関係者の供述だけで有罪の推定に流れないよう、十分な注意が必要だと思います。(了)