【京都市左京区】銀閣に銀箔を貼っていないのは何故だろう? 国宝東求堂は日本家屋の元祖!
通称・銀閣寺は金閣寺とともに京都五山の一つ、相国寺の山外塔頭(たっちゅう)のひとつで、正式には慈照寺といい、山号を東山(トウザン)といいます。
参道を登りきると世界遺産にしては意外と質素にも思える総門に突きあたります。時代は、応仁の乱から戦国時代へ。その頃、八代将軍の足利義政によって通称「銀閣」、東山山荘が建立されました。義政の没後、遺言により東山慈照寺としたものです。 義政の諡号(戒名)が慈照院といった事実に由来します。
義政という人は、煩わしい政治よりも文化に興味があって、さっさと隠居して、奥方の日野冨子や山名宗全など有力守護大名に政治をほうり任せてしまいます。戦乱続く応仁の乱の終盤に九歳の義尚にさっさと将軍職を譲り、隠居してしまったんですね。この時代の文化は、金閣に代表される3代義満時代の華やかな「北山文化」に対し、義政が帰依した禅宗の影響を受け、わび・さびに重きをおいた「東山文化」と呼ばれます。
総門の石畳には小豆大(あずきだい)の結晶が入っているものがあります。薫青石(きんせいせき)ホルンフェルスと呼ばれる石で、産地は銀閣寺裏山です。さらに、総門をくぐり右に折れると、高い垣に囲まれた長さ約50メートルの参道があります。石垣の上に竹垣が組まれ、切りそろえられた高い生け垣は椿、カシによるもの。これが銀閣寺垣です。応仁の乱の最中でもあり、本来は防御をかねた外界との区切りとして設けられたと言われています。
門を過ぎてすぐ錦鏡池の汀にひっそりと佇む「銀閣」が見えてきます。観音菩薩を祀っているため、正式名称は「観音殿」といいます。銀閣寺の俗称のとおり、慈照寺の象徴というべきもの がこの観音殿(国宝)です。義政は、残念なことに観音殿の完成を待たずして前年に没したため、見ることはなかったのですが、義政の好きだった洛西の西芳寺(苔寺)にかつてあった瑠璃殿を模して作られました。禅に帰依し、茶道を師事した義政のわび、さびの境地を結晶した建造物と伝わります。
銀閣と呼ばれるだけあって、建物には銀箔が貼られているかと思いきや、実は漆塗りの建物なんですね。銀箔が貼られていない理由に関しては、「銀箔を貼る予定だったのが義政が途中で没した」「財政上の理由で銀箔を貼る事ができなかった」「外壁の漆が光の反射で銀色に見える」「義政は茶道を趣味とし禅宗文化に帰依したわびさび人で創建当初から銀箔を貼る計画はしていなかった」など諸説ありますが真相は分かっていません。2007年1月に行われた科学的な調査でも銀箔は検出されなかったと発表されました。
方丈と東求堂の間は短い渡り廊下でつながれ、間には銀閣寺型の手水鉢があります。この紋様はなんでしょう。そうお坊さんの袈裟(けさ)文様をしています。
国宝・東求堂(とうぐうどう)は、観音殿(銀閣)とともに、東山殿造営当時の遺構として現存しています。檜皮葺きで、近世書院造の現存する最古の遺構です。本来は持仏堂、すなわち阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂でした。内部を四畳、四畳半、六畳の小部屋に仕切ってあって、現在の日本風家屋の原型といわれています。特に東求堂内の四畳半書院・同仁斎(どうじんさい)は、付書院と違い棚があり、現存するものでは最古の座敷飾りであり、四畳半の間取りの始まりといわれています。
東山慈照寺(銀閣寺)(外部リンク) 京都市左京区銀閣寺町2