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大坂冬の陣後の和睦で活躍した初(常高院)の数奇な運命

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪(坂)城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、大坂冬の陣後の和睦が取り上げられ、その中に初(常高院)の姿があった。初と言えば、浅井三姉妹(他に、江、茶々)の1人であるが、その数奇な運命をたどることにしよう。

 初は永禄13年(1570)に浅井長政とお市(織田信長の妹)の娘として生まれた。長政は天正元年(1573)に、お市は天正11年(1583)に、それぞれ自害して果てた。初が京極高次と結ばれたのは、天正15年(1587)のことである。

 夫の高次は、慶長14年(1609)に47歳で没した。高次の後継者には、長男の忠高が選ばれた。夫の死と同時に初は出家し、常高院と号したのである。

 初がその実力を発揮したのは、大坂の陣が迫る豊臣家と徳川家が対立する状況下であった。家康は慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件で、数多くの無理難題を豊臣家に要求したが、それは拒否された。

 それを受けて、ついに家康は豊臣家と戦うことになった(大坂冬の陣)。その後、両家の間に和睦の気運が生じると、初は豊臣方の和睦の使者として、交渉のテーブルに着くことになった。

 慶長19年(1614)12月、すでに大坂冬の陣は一時的に停戦していたが、家康は和平工作を画策し、豊臣方の交渉相手として淀殿(茶々)の妹の初に白羽の矢を立てた。しかし、家康は豊臣方の態度が強硬であり、交渉に応じることは難しいと考えた。

 そこで、家康は大坂城に大砲で集中砲火を行い、豊臣家を威嚇したのである。城内では死者が続出し、同時に豊臣家には厭戦ムードが漂った。そのダイミングで、徳川方は和平案を豊臣家に持ち込んだのである。

 和平交渉は徳川方の京極忠高の陣所で行われ、徳川方は側室の阿茶局らが、豊臣方は初らが交渉のテーブルに着いた。このときの初は、豊臣家の意向を徳川家に伝え、円満に解決するよう努力した。女性同士が交渉することで、当事者間の鋭い利害関係が多少は緩和されたのであろう。

 いったんは和睦が締結されたものの、最終的に破綻した。翌年、両者は大坂夏の陣で再び戦い、豊臣家の滅亡という形で幕を閉じた。その間、初は両者の和議をまとめるために奔走したが、すべてが無に帰したのである。

 先述のとおり、夫の高次が慶長14年(1609)に没すると、初は京極家の江戸屋敷で晩年の生活を送った。初が亡くなったのは、寛永10年(1633)8月のことである。三姉妹のなかで、一番の長命だった。常高院殿松厳栄昌大姉と諡名を贈られ、侍女7人が剃髪し尼になったという。

 墓所は、現在の福井県小浜市の常高寺に設けられた。初は自身の遺言の中で、たとえ国替えになっても、常高寺は若狭の地に止めて欲しいと書き残している。初の没した翌年、京極家は国替えになったのであるが、常高寺は若狭の地に残された。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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