なぜこの道がバス通りなんだろう?”ゆずの街”岡村町をゆく 横浜の市営バス なぜ山岳路線が多い?
※この記事は2020年9月に発売された「全国”オンリーワン”路線バスの旅」掲載記事を、現在の状況にあわせつつ加筆・修正し、再掲載しています。
2022年6月28日発売の「全国”オンリーワン”路線バスの旅2」では、他にも横浜市内の路線を取り上げています。
神奈川県横浜市といえば、赤レンガ倉庫やベイブリッジなどお洒落なベイエリアのイメージを持つ方も多いでしょう。しかし実際には平地は狭く、数Kmも移動すればすぐに山岳部に入ってしまいます。広々とした目抜き通りを京急・東急・神奈川中央交通など錚々たる顔ぶれの路線バスが走り抜ける中、横浜市交通局のバス路線(以下:市営バス)は途中で大通りから外れ、昔ながらの住宅街で丁寧に乗客を拾っていくのです。
山間部のバスは山の中腹で幾重にも折れ曲がる生活道路を進み、この地域でハンドルを切り続ける運転手さんのテクニックは凄まじいものがあります。人口380万人を擁するものの至る所で起伏が激しく、駅から遠い場所も多い横浜市では、きめ細かい路線バス網が欠かせません。
その中で、今回は市営バス9系統・78系統・133系統が経由する磯子区岡村町を訪れてみましょう。数々のヒット曲を世に送ったアーティスト「ゆず」 の出身地として知られているこの街では, かつて「なぜこんな狭い道がバス通りなんだ?」とうたわれた道を、乗客を満載した大型バスがゆっくりと走り抜けています。
☆角からバスがぬっと登場?“岡中前“の交差点&狭いバス通り
多くのバスの始発地点でもある滝頭バス停の目の前には運河(掘割川)があり、近辺はかつて水運と陸運の積み替えの要衝でもありました。歌手・美空ひばりさんの実家が営んでいた鮮魚店「魚増」もほど近くにあります。
そして目の前のバス車庫(横浜市交通局・滝頭車庫)はかつての横浜市電の車庫でもあり、滝頭〜横浜駅間は当時から変わらぬ花形路線の一つ。市営バスの中でも102系統はこの区間を最短距離・30分少々で結びますが、9系統は岡村町・弘明寺と磯子区の山岳地帯を回り込み、所要時間は約50分。乗車間違いも多いそうで、 海側を快走すると思った市バスがいきなり山を登りだして、焦る人もいるのだとか。
滝頭から岡村町に入る「四間道路」(よんけんどうろ)は、前述のゆずの楽曲(アルバム「新世界」収録)にも登場した道路で、その通り四間(幅7m程度)から今もあまり拡張されていません。道幅をそのまま名に冠した道路の大半が、名古屋の「四間道」(しけみち)のように幹線道路としての役割をバイパスにに譲っているのに対して、こちらの「四間道路」は現在でも横須賀街道と鎌倉街道の抜け道でもあるため交通量も多く、主要な道路としての役割は変わっていません。
バスはまっすぐ四間道路を進むものの、対向車線のバスの行き違いの際には運転手さん同士でアイコンタクトを取り、路肩に電柱が張り出していない場所を避けてすれ違いを行います。なおこの道路は、多い時間帯には上下合わせて1時間に40本もバスが来るため、すれ違いの頻度は相当なものです。
徐々に坂を登ったバスは、最大の難関である「岡村中学校前」交差点にさしかかります。なお四ッ角の奥に見えるのが、ゆずのお二人の母校・横浜市立岡村中学校です。
近辺の道路自体は直線で見通しも悪くないものの、交差点の角ギリギリまで住宅や学校の塀が突き出し、路面はなだらかな傾斜となっています。見通しが良いとは言えないこの交差点を、約2・5m、全長10m以上、横幅だけで1車線分をとってしまう「大都市顔デカ仕様」の大型バスが曲がっていくのです。また右左折の際にカーブの内側にちょど来る電柱があり、さらに交差点の通過を難しくしています
バスが信号待ちの車列の先頭だった場合、交差点の進入までは実測で8秒程度(実測)。角の向こうで待っていると、対向のバスが「ぬっ」と視界にあらわれ、驚かされます。信号の停止線はバスの行き違いを想定してかなり手前側に敷かれているものの、この近辺の道路事情を知らない自家用車のドライバーは、目の前の視界いっぱいに曲がってくるバスに驚くそうです。
☆待ちづらいバス停、途切れない乗客…山間部の幹線バスの悩み
そして岡村中学校前の交差点を通過したバスは、かつては峠道だったであろう連続カーブをうねうねと抜けて行きます。通常のバス停ならバス1台分の停車スペースを持つ「バスベイ」があるものの、この沿道では路肩にそこまでの余裕がない様子。「古泉」バス停の下り(滝頭・磯子駅方面)などは、山裾のカーブを曲がり切った先ににあるため、一旦停車するとバスの車体が道路をふさいでしまいます。
そして降りる乗客は時間帯を問わず多く、道路の左右にある山手の住宅街へ次々と消えていきます。平日の昼間でもバスの車内は立ち客も出て、運転する方も乗る方も右に左に体を揺らしての峠越え。バス通りの界隈は、ずっと忙しない状態が続いているのです。
人口380万を擁する横浜市の一角を占める磯子区は、一極集中の「極」を支える地域でもあります。その中でも運転手さんの目配り・気配り・ドライビングのスキルがないとバスが走れない地域は磯子区以外にも多く、バスの運行はマンパワーで支えられていると言って良いでしょう。「エッセンシャルワーカー(社会インフラの維持に必要な職業)」でもあるバスの運転手さん・・・ここでは詳しく触れませんが、給料・労働環境でちゃんと報われますように。
この他にも市営バスは、010系統(峰の郷方面)・32系統(保土ヶ谷〜関内駅)などアップダウンの激しい路線を多く抱えています。京都・大阪・名古屋・仙台など、人口100万人以上の都市公営バスではあまり見られない「山岳路線」を多く抱える背景は、関東大震災後に爆発的な復興を遂げた横浜市の歴史ともリンクするものです。
☆準備期間は3週間弱?震災・自治体再編後に急遽誕生した横浜の市バス
現在の市バス誕生は、1923(大正12)年に発生した関東大震災がきっかけとなりました。当時の横浜市はほとんど市域が狭く、震災の2年前に公営化された横浜市電(路面電車)が市街地を網羅していました。しかしそのコンパクトさも仇となり、中心部から下町までほぼ全域が震度6強の揺れによる倒壊・火災の被害を受け、街全体が機能不全を起こしてしまいました。港町であるにもかかわらず、海側からの救援物資の荷揚げも満足にできなかったことからも、被害の大きさが窺い知れます。
その後も復興は遅々として進まず、横浜市への居住を諦めた住民の転出が急速に始まります。しかし周囲自治体は猛烈な人口増に対する整備が追いつかず、元々あった街の復興すらままならない状態でした。こうして1927(昭和2)には周囲の保土ヶ谷町・鶴見町など2町7村が合併し、現在の横浜市に近い市域に。なお岡村町は震災前の1911(明治44)年、一足先に久良岐郡屏風浦村(くらきぐん・びょうぶがうらむら)から横浜市に」編入され、1927年の区制施行で現在の「磯子区岡村町」が誕生しています。
この震災で横浜市電は実に127両中75両が被災し、新しい市域をカバーしようにも、残り車両の修理すらままならない状態。急場を凌ぐべく、合併の翌年には横浜市営バスが7路線で運行を開始することになりました。周囲の自治体は電車がとても延伸できない山岳地帯が多く、このあと戦中・戦後・昭和時代がかあってもと山間部の旧・2市7町に路線を開業し続けて現在の市営バスの路線網が完成したのです。
ただこの頃の岡村町は大半の地域で人力車すらまともに入れず、山を掘割で切り開く車道はまだまだ工事中。この地にバスが到達したのはもう少し先、1935(昭和10)年のことです。
設立の経緯からして急場凌ぎだった横浜の市営バスは準備期間が極端に短く、乗務員の採用通知から運行開始まで3週間もなかったのだとか。この体制でまともに運行できるわけもなく、迷子になったバスが「保土ヶ谷はどちらですか?」と道を尋ねながら走ったり、とりあえず目の前の乗客を乗せたまま違う目的地に走り出し行方不明騒動を起こすなど、日々の運行は本当に手探りだったようです。
市営バスはその後も第2次世界大戦中、3年間で25回にも及ぶ空襲で大半の車両が被災してしまいます。しかし戦後には自前で「ポンポン」と呼ばれる車両(漁船の機器をどうにか転用。エンジンが「ポンポン」と音を立てて激しく振動し、ボンネットが吹っ飛ぶことも)を新造したり、米軍払い下げのタイヤが外れやすいトレーラーを改造して使ったり・・・冬場はエンジンがかかりづらく、近所の民家でお風呂の残り湯をもらってラジエーターに差して起動するような、紛れもない“ボロ車両”ばかりが百数十台。その状態で要望に応じて、横浜市全域で急拡大を続けたのは、驚くばかりです。
また民間各社は、それぞれ「過当競争になりつつあった零細事業者を統合」(1921年創業・相武自動車。現在の神奈川中央交通の源流)」「自社の鉄道沿線の補完(京浜電気鉄道バス→京急バス、相模鉄道→相鉄バス それぞれ1932年、1948年に市内で運行開始)と、それぞれの名目で横浜市内に路線を開設していきます。
これに「拡大した市域への連絡手段」として創業した市バスも加わり、戦後の高度成長期にはそれぞれ競うように路線を開設。新道・旧道ともにきめ細かい横浜市のバス路線網が徐々に形づくられていったのです。
☆高齢化に悩まされる山手の住宅街、しかし岡村町は…?
その後も横浜市は、山手に宅地の開発を続けてきました。しかし多くの地域で開発から50年以上が経過し、バスの営業実績の低迷も目立つように。しかし中には高齢化率が50%を超えるような団地もあり、移動手段としての必要性は以前より増している・・
そういった路線を特に多く抱えていることが、今の市営バスの悩みでもあります。もっともこれは横浜に限らず、全国各地で見られることです。
4系統のバスが行き交う一大拠点・岡村町も例外ではなく、ここ十数年で地域の高齢化率も15%→30%に。しかし若い世代の転入も多く、他の地区と違って人口はあまり減少していないといいます。やはり「バスで磯子駅まで10分少々、横浜駅にも直行できる」立地の魅力も大きいのでしょう。
しかし買い物も通院もあまり便利とは言えず、「バスがやたらと走るのは、近くに駅がないから」と「岡村ムラムラブギウギ」(アルバム「ゆずの素」収録)にも歌われているこの街のもう一つの魅力といえば、やはり「ゆず・ゆかりの街」としての顔ではないでしょうか。
お二人の母校・岡村中学校や「岡村町」バス停の先には、デビュー当時の衣装としても知られる「岡中ジャージ」(岡村中学校のジャージ)などを販売している「オリオンスポーツ」や「健太郎のお姉ちゃん」にも登場する洋菓子店「モンマルト」など、所縁の深いスポットが多数。勾配が多いその地形もあって、「夏色」(メジャーデビューシングル)に登場するような「この長い長い下り坂」が至る所に存在します。
岡村町でも「ゆずっ子」(ファンの総称)は歓迎ムードのようで、コロナ禍前は歌詞に出てくる場所や聖地をまとめた「ゆずマップ」が配布され、バスで来たファンが聖地を巡りやすいようになっていました。(現在は不明)なにぶんこの街は駐車場が少なく、車で来るにはちょっと不向き。バスのフリーパスを購入して、バス停1箇所・2箇所分、こまめに乗降して巡るのも良いでしょう。
なお「天神前」バス停(前述の「健太郎のお姉ちゃん」にも登場)の横浜駅方向のバス停には、目の前の「とんかつ美とんさくらい」のご好意でベンチも設置され、店内にはゆずのお二人のサインが目立つところに飾ってあります。岡村町をじっくり巡り、「さくらい」の名物・釜焼きとんかつで腹を満たした後は「サヨナラバス」よろしく「6時ちょうどのバス」で帰るのもいいでしょう。もっともこの辺りからの乗車となると、どの方面に帰るにせよ、どこかで渋滞にハマることは間違いありません。
<了>
参考資料:
「横浜市交通局八十年史」
「岡村の今昔物語」
横浜市電保存館ホームページ
※写真は特記なきかぎり筆者撮影