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久保建英を東京五輪に出場させるべきではないと言いたくなる決定的な理由

杉山茂樹スポーツライター
日本代表選手としてプレーした小倉隆史。1994年5月、日本対オーストラリア@広島(写真:築田純/アフロスポーツ)

 久保建英がキリンチャレンジカップとコパアメリカを戦う日本代表に選出された。間もなく18歳。本来なら現在ポーランドで開催中のU-20W杯に出場しているべき選手だ。トゥーロン国際大会(6月1日〜)に出場するU-22のメンバーに加わったとしても“特進”だ。代表(A代表)選出は、さながら2階級特進に値する。

 抜擢ではない。驚きは少しもない。森保一監督もメンバー発表記者会見で「年齢は関係ない。実力で勝ち取ったものだ」と述べていたが、当然のことが起きたに過ぎない。

 だとすれば、後戻りすることはできない。これはアンダーカテゴリーからの卒業を意味している。久保は20歳以下であっても、もはやA代表級だ。

 それをここでハッキリさせておきたい理由は、A代表に選出され、いったん育成部門を卒業しながら再びアンダーカテゴリーの試合に出場した選手が、過去にいくらでもいるからだ。

 アンダーカテゴリーは育成の場だ。そこからA代表にどれほど昇格させることができるか、昇格することができるか。育成の成果は、試合に勝つか否か、U-20W杯でどれほどの成績を収めるかではなく、その数の多い少ないに懸かっている。大会で結果を出しても選手の伸びがそこで止まれば、育成はうまく行かなかったことになる。

 結果を出せば昇格する選手の数も増える。両者はほぼ比例の関係にあると考えたいが、例外はいくらでもある。

 U-23で臨む五輪も、サッカーの世界では育成の場だ。最大3人まで用意されているオーバーエイジ枠を使う、使わないは各国の判断に委ねられている。

 日本は1996年のアトランタ五輪以降、使ったのは4回(2000/シドニー、2004/アテネ、2012/ロンドン、2016/リオ)、使わなかったのは2回(1996/アトランタ)、(2008/北京)だ。活用しても3人枠をフル活用しなかったことも2回(アテネ/2人、ロンドン/1人)ある。

 オーバーエイジは弱点の補強を可能にする。人気選手を投入すれば、関心を集めるための手段にもなるが、勝ちたい気持ちを反映した勝利至上主義とも深い関係がある。オーバーエイジ枠を使えば、その分だけ若手選手が弾かれることになる。育成とは対極を成す考え方だ。

 それでもあえて行使するか。オーバーエイジ枠を使う、使わないは、それなりに大きな問題なのだ。たとえば、23歳以上の選手がオーバーエイジ枠で自分を使って欲しいとアピールするのは本末転倒。なにをか言わんやだ。これは協会がリーダーシップを発揮し、主導すべき問題だ。

 冒頭で触れた会見で、森保監督の傍らに座る関塚隆技術委員長は「2020年東京五輪では金メダルを狙いに行く」と述べた。それを結果至上主義宣言と指摘するつもりはない。好成績を収めて欲しい気持ちに変わりはない。問題はどこまで無理をするか、だ。オーバーエイジ枠をフル活用するつもりなのか。23歳以下でも、すでにA代表に選出された(育成を卒業した)選手も加えるのか。後者で言えば、久保建英とGKの大迫敬介だ。彼らを使うことは育成本来の主旨に反している。

 日本のサッカー界はかつてそれで痛い目に遭っている。A代表でプレーした選手を五輪チームでプレーさせ、取り返しの付かない大怪我を負わせてしまった前科が2例もある。

 1人は小倉隆史だ。悲劇はアトランタ五輪を目指す五輪チームがマレーシアで合宿を行っている最中に起きた。小倉はすでにA代表入りを果たしていた。94年5月に行われたフランス代表との一戦では、長谷川健太と交代でピッチに送り込まれるや、ベストメンバーで臨んできた強国相手に一矢を報いるゴールを挙げていた。

 93-94シーズンには当時オランダ2部だったエクセルシオールでも活躍していた。現地で高い評価を受け、20歳以下のベストプレーヤー賞にも輝いていた。そこには昇りの階段が用意された状態にあった。だが五輪チームでキャプテン格でもあった小倉は、オランダサッカー関係者の引き留めも空しく帰国。

「日本に帰った方が、本大会出場を狙う五輪チームに貢献できる。五輪本大会に出場し、活躍すれば欧州のクラブからオファーは来るはず。少し遠回りかもしれないが、僕はそちらに賭けたい」

 その時の彼の真っ直ぐな目は、いまでも忘れられない。

 当時の日本サッカー界は、五輪幻想に支配されていた。1968年メキシコ五輪で銅メダル獲得以来、予選を突破し本大会に出場したことがなかったため、あの銅メダルの夢よもう一度とばかり、五輪への憧憬はW杯と同じぐらい膨らんでいた。必ずしもW杯が一番だったわけではなかった。

 場所はマレーシアの練習場だった。小倉はジャンプして着地したとき泥濘んだピッチに足を取られ、右足後十字靱帯を断裂。当時は治療技術が進んでいなかった時代で、手術でその膝が蘇ることはなかった。

 当時の五輪サッカーは若手選手の品評会と言われ、アトランタには世界各地からスカウトが駆けつけた。小倉がオランダを離れる決断をした理由もそこにあった。若手選手の品評会に賭けようとした。

 しかし五輪サッカーの、若手選手の品評会というその位置づけは、4年後のシドニー五輪ではすっかり崩壊していた。それはU-20、U-17W杯に移行していた。若手の定義がより低年齢化したことによる。

 日本はアトランタ五輪でグループリーグ突破こそならなかったが、ブラジルを倒す世紀の大番狂わせを演じた。俗に言うマイアミの奇跡である。次回のシドニー五輪が盛り上がるのは当然の成り行きだった。

 2002年日韓共催W杯も迫っていた。オーバーエイジ3人を加えた日本の五輪チームが、A代表と遜色ない顔ぶれだったことも人気に拍車を掛けた。オーストラリア各地で行われた日本戦4試合のスタンドは、日本からの旅行者が大挙駆け大盛況だった。

 悲劇はその過程で起きた。そのアジア予選のファーストラウンド対フィリピン戦で、小野伸二が負った怪我だ。相手から浴びた悪質タックルで左足靱帯を断裂。小野はその後、オランダのフェイエノールトで活躍したが、この怪我で負ったダメージがなければ、もっと大きなクラブで活躍できていたはずだった。

 小野は18歳の若さですでに98年フランスW杯に出場していたA代表選手。この時も当初は、コパアメリカに出場する遠征メンバーに加えられていた。それが土壇場になってキャンセル。客足が見込めそうもないフィリピン戦に客寄せパンダのごとく連れてこられたのであった。

 この件に関しては、4月13日に発行のYahooニュース個人「千両役者・久保建英を見て想起した、20年前のフィリピン戦で起きた悲劇」に詳しく記してあるので、参照していただきたいが、小倉も小野も、怪我を負う場所として、そこが相応しい場所だったかということだ。

 サッカー選手なので怪我はつきもの。特に膝はサラブレッドに例えられる。いつ壊れるかわからないものという点で一致する。

 万が一、怪我を負うなら悔いのない舞台で。久保を囲む大人たちが、日本サッカー界に起きた悲劇から学ぶべき教訓はこれになる。

 久保はもはやA代表の選手。五輪チームに招集すべきではない。久保の枠は他の選手に与えられるべきである。東京五輪で金メダルを狙うのはいいが、道理から外れるような無理をしてはいけない。

 五輪のサッカーは定義の曖昧なイベントだ。2012年ロンドン五輪。日本は3位決定戦で韓国に敗れ、惜しくもメダルを逃したが、もし韓国に勝ちメダルを獲得しても、大きな感激が待ち受けていたかと言えば怪しい。

 サッカーファンの多くは、五輪の金メダルの重みを知っている。他の競技とはコンセプトが違う。五輪にあって、世界一決定戦的な要素がここまで低い競技も珍しい。

 久保の使用はA代表に限りたい。声を大にしたくなる理由である。

スポーツライター

スポーツライター、スタジアム評論家。静岡県出身。大学卒業後、取材活動をスタート。得意分野はサッカーで、FIFAW杯取材は、プレスパス所有者として2022年カタール大会で11回連続となる。五輪も夏冬併せ9度取材。モットーは「サッカーらしさ」の追求。著書に「ドーハ以後」(文藝春秋)、「4−2−3−1」「バルサ対マンU」(光文社)、「3−4−3」(集英社)、日本サッカー偏差値52(じっぴコンパクト新書)、「『負け』に向き合う勇気」(星海社新書)、「監督図鑑」(廣済堂出版)など。最新刊は、SOCCER GAME EVIDENCE 「36.4%のゴールはサイドから生まれる」(実業之日本社)

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