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【「麒麟がくる」コラム】果敢に織田信長に戦いを挑んだ朝倉義景・浅井長政の悲惨な最期とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
越前朝倉氏の本拠である城下町の一乗谷は、織田信長の攻撃で灰燼と化した。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

■ほぼスルーだった織田信長と朝倉義景・浅井長政との戦いの話

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第37回「信長公と蘭奢待(らんじゃたい)」は急展開で、織田信長と越前の朝倉義景・近江の浅井長政との戦いはほぼスルーだった。

 今回は、織田信長と朝倉義景・浅井長政との戦いの話を取り上げることにしよう。

■織田信長の出陣

 天正元年(1573)7月26日、京都を発った信長は、巨大船に乗って近江高島郡へ出陣した。近江高島郡は、江北の浅井氏と越前から南下する朝倉氏の合流する地点だった。

 信長は陸路からも軍勢を差し向け、木戸城(滋賀県大津市)、田中城(同高島市)を次々と落した。木戸・田中の両城は、光秀に与えられた。この勝利により、湖西方面で織田方は優位になった。

 同年8月になると、浅井氏の配下にあった阿閉氏、浅見氏が裏切り、信長の配下に加わった。これにより、朝倉・浅井連合軍の態勢は、不利に傾いた。同じ頃、越前の朝倉氏は余呉、木之本(以上、滋賀県長浜市)まで出陣し、信長の軍勢と交戦した。

■朝倉氏の滅亡

 信長は自ら出陣して朝倉軍を蹴散らすと、そのまま逃げる敵を追い掛けた。織田軍は越前へ退却する朝倉軍を追撃すると、敦賀(福井県敦賀市)付近に至るまで、朝倉軍の約3000の兵が討たれたという。

 討たれた将兵の中には、朝倉氏の一族や重臣が含まれるなど、朝倉氏にとって大きな痛手となった。この戦いの敗戦で、朝倉氏は窮地に陥ったのである。

 同年8月、織田軍は敦賀から越前国内に攻め込むと、義景は一乗谷(福井市)を捨てて賢松寺(福井県大野市)に逃亡した。一乗谷に住んでいた武士、町人も織田軍に恐れをなして、散り散りになって逃げだした。

 その間、義景の母、嫡男・阿君丸は織田軍に捕縛され、無残にも殺害された。8月20日、朝倉義鏡(義景の従兄弟)が織田方に寝返ったことが決定打となり、最終的に義景は自害して果てたのである。

 こうして、朝倉氏は滅亡した。

■浅井氏の滅亡

 越前・朝倉氏の討伐後、次に信長がターゲットにしたのは、朝倉氏と同盟を結んでいた江北の浅井氏である。8月26日、越前を発した信長は、浅井氏の居城・小谷城に近い虎御前山(以上、滋賀県長浜市)に陣を敷いた。

 翌8月27日に羽柴(豊臣)秀吉が小谷城の京極丸に攻め込むと、その翌日に久政(長政の父)が自害に追い込まれたのである。もはや、浅井氏の運命は風前の灯火だった。

 9月1日には小谷城が落城し、長政自身も自害して果てた。長政の妻のお市(信長の妹)と娘の3人(茶々、初、江)は辛うじて城を脱出したが、嫡男でわずか10歳の万福丸は織田軍に捕縛され、関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で磔刑に処せられた。

 3人の娘はとりあえず信長が引き取ったものの、これにより浅井氏は滅亡したのである。大いに軍功を挙げた秀吉には、浅井氏の旧領が給与された。

■箔濃にされた久政・長政の首

 戦後、信長は久政・長政の首に箔濃(はくだみ。漆を塗り金粉を施すこと)を施し、家臣に披露した。この逸話は、信長の残酷性をあらわす措置と見る向きもあるが、首に敬意を払った死化粧であるとの見解もある。

 とはいえ、首を箔濃にした例はあまり聞かないので、家臣らは驚いたことだろう。信長に逆らえば、このようになる(首を獲られて箔濃にされる)と家臣を威圧した可能性もある。

 こうして信長は、長年にわたり対立してきた朝倉義景・浅井長政を討伐し、越前と近江に勢力基盤を固めたのである。しかし、それはまだ戦いの序章にすぎなかった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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