おちこぼれたら見えた「家族円満な老後のために」今必要なこと「さあ、おちこぼれよう!」
「毒親問題」という言葉はここ数年で、市民権を得たような感があります。しかし、私が多くの人をカウンセリングしてきて感じるのは、自分を親のことを毒親と言うほどではないが、しかし「なんか親としっくりいかない」という微妙なニュアンスに支配されている親子の多さです。
そういう人は例えば、「母親のことは嫌いではないけれど、しかし母親と同居するのだけは勘弁」とか「親のことが嫌いでもないけど好きでもないので、親の老後のめんどうだけは見たくない」などと言います。
なかなか微妙でしょ?
当たり前のこと
親のことが好きであろうと嫌いであろうと、例えば同居したくないというのは「ものの道理」であり、さほど論じるに値しないものだ、という見方もあります。私たちが持っている感覚というのは、究極的には、自分にしか理解できないものだ、という見方です。
あなたにとっての快適な生活スピードと、親にとってのそれは違う――それは私たちの感覚が極めて個別的なものである以上、当たり前のことであり、したがって双方における快適な生活スピードが違うのであれば別居するのがベターであり、それ以上論じても何も生まれない。感覚とはそういうものだ。以上、終わり。
170年前の「新しい視点」
しかし、そうは言っても、「やっぱり親だからなあ。老後の世話をしたくないという私の感覚がおかしいのかなあ」と罪悪感を抱く人には、おちこぼれないと持てない視点が有効でしょう。
それは例えば、キルケゴールの視点です。
「毒親」にガッツリやられてきたキルケゴールは、最終的に神様に反抗します。なぜなら、「親が悪い」のではなく、「その親と自分をマッチングさせたのは神だから神が悪い」と彼は考えたからです。
言われてみると当たり前のことですよね。親は子を選べないし、子も親を選べないのですから。選べなかった者どうしが「ああでもない、こうでもない」と感情論をふっかけあっても何も生まれないのは火を見るよりも明らかでしょう。「それはそういうものでしかない」のですから。
自分の親のことを毒親と呼ぶ人の多い現代からすれば、170年前のキルケゴールのその視点は「新しい」と言えるでしょう。
おちこぼれないと見えない世界
おちこぼれてはじめて、私たちは人為の世界以外の世界に目を向けることができます。おちこぼれる前は他者の期待に応えるのに忙しいから、「こうすれば、ああなる」という意識の世界にしか目がいきません。
しかし、いったんおちこぼれると、すなわち「こうしても、ああならなかった」となれば、落ち込んだりモヤモヤしたりすることがあるものの、やがてその原因をひとりで探るようになります。
考えて考えて考え抜いて、頭がしびれるほど考えた結果、キルケゴールは「神に対する反抗」という視点を持つに至りました。すなわち、意識の世界を超えたなんらかの存在が「私」をこのように生かしているのではないか、操っているのではないか、という視点を持つに至った。
さあ、おちこぼれよう!
身長の高低や鼻の丸さ、低さ、高さ、どれだけ食べても痩せているようにしか見えない骨格、どれだけ体重を減らしても太っているようにしか見えない骨格など、私たちは生まれもった「どうにもならないもの」をたくさん所有しています。
親子関係もそのうちの1つです。あなたはなにも「その親の子」として選択的に生まれてきたわけではないし、あなたの親はあなたよりもっと聞き分けがよく、明るく元気で頭のいい子がほしいと思っていたかもしれない。
しかしなぜか「その親」と「その子」がマッチングした。
「なぜか」というのがポイントです。理不尽としか言いようがない「なぜか」。これはもしかすれば、トコトンおちこぼれたことのない人には(トコトン神様に反抗したことのない人には)理解できない「感覚」かもしれません。
したがって、私の話に納得できない方は、今以上にもっとおちこぼれてみてはいかがでしょうか。きっと親に対する考え方が変わるでしょう。おちこぼれまいと必死に踏ん張るから、「それ」が見えず、ゆえに「親と同居はちょっと……」と思うのです。
というわけで、さあ、おちこぼれよう!