樋口尚文の千夜千本 第69夜「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」(ジェイ・ローチ監督)
史実だけでは見えて来ない感情の劇
反共映画団体の男がB級映画プロデューサーのフランク・キング(ジョン・グッドマン)のオフィスへやって来て、ジョン・ウェインやロナルド・レーガンの名を語りながら、筋金入りのコミュニストである脚本家ダルトン・トランボの起用をやめなければ、スタア俳優の出演をボイコットさせると居丈高に語る。するとやにわにキングは手近にあったバットを振り回しながら「われわれの映画は所詮クズだから、俳優は素人でいい。どこかに書きたてようが、われわれの映画の観客は字が読めないから大丈夫だ」と怒鳴りつけて男を追い払う。本作で最も痛快な場面である。ここでキングは額装した自社作品のポスターのガラスをたたき割るのだが、そこに入っていた”Gun Crazy”もトランボが密かに脚本の大部分を書いたものだ。『拳銃魔』という邦題で公開されたこの傑作は、『我等の生涯の最良の年』の原作者として知られたマッキンレー・カンターと脚本家ミラード・カウフマンの共作ということになっているが、このカウフマンは名義を借りたトランボのことであった。
『拳銃魔』は大変緊密な組成の傑作だが、それはトランボの脚本では17ページにわたる銀行襲撃のシークエンスを4分近い長回しで一気に処理してみせたジョセフ・H・ルイス監督の大胆なる映画話法の功績と言われがちかもしれない。だが、それとて低予算、短期間で仕上げるための、修羅場が生んだマッチョな工夫の賜物であって、要はハリウッドで最高のギャラ(は「世界一のギャラだ」とスタジオ社長は補足したが)をほしいままにしていた名脚本家は、赤狩りのおかげでそんなせっぱつまった修羅場に漂着してしまった訳である。やがてこのモーリス&フランク・キング兄弟のもと、トランボはロバート・リッチという偽名で『黒い牡牛』という代表作を実現することにもなるのだが、本作のフランク・キングにいわゆる「字も読めない観客」相手にした「エイリアンと農婦がセックスする」ようなキワモノ映画を、トランボはブラックリスト仲間の脚本家たちとせっせと「共産」しながら、タフに食いつないでゆく。
冒頭近くの「アメリカの好物は金とセックスだ」という台詞そのままに、このフランク・キングは脚本を買いたたいては即製のキワモノ映画をでっちあげてブルーカラー相手に儲けて、セクシーな秘書やら愛人(?)やらをはべらせて悦に入っている感じだが、その身の程については潔く、高圧的なメジャーの威力には猛然と反骨をもってのぞむ。このえげつなくも所信に忠実な自由人に対して、本作に登場するトランボの元同志たちはマッカーシズムの圧力にめげて友を売り、どんどん卑屈な面持ちに変わってゆく。近年、ハリウッドと赤狩りをめぐる研究書もいくつか出版されるようになったので、ちょっとした映画ファンならダルトン・トランボの「映画より奇なり」な弾圧と潜伏と逆転の人生については既知のことかもしれないが、モチーフは事実であるとしてもこうして劇化することによって、その「裏切り」をめぐる痛みや後ろめたさが感情として描かれると、実にさまざまな事を考えさせられる。というか、こうした保身と裏切りのテーマが、この強烈な同調圧力と故なきバッシングの時代にあって、余りにも現在的で切実なこととなっているのはどうしたことか。到底歓迎できる感想ではないが・・。
しかし、本作でブライアン・クランストンが目覚ましい好演を果したトランボが共感あふれるキャラクターとなっているのは、決して彼をヒロイックな反骨の人として美化していないからだろう。その所信には心底賛同し、苦境にあっても泰然と支え続ける妻(ダイアン・レインが艶っぽくも素晴らしい肝っ玉かあさんぶり)や健気な娘(エル・ファニング)らによって、終盤のトランボは家庭人としては落第とこてんぱんにやっつけられる。とびきりカッコいい役回りはカーク・ダグラス(そっくりさんのディーン・オゴーマン)に任せて、トランボはどろ臭くデコボコな不器用人間として描かれ、その七転八倒ゆえに最後の「私は誰かを傷つけようというのではない。私と誰かの傷を癒やすためにここにいいる」という台詞もキレイごとに終わらず、しみじみ活きて来るのであった。
それにしてもこの作品自体が、主演のブライアン・クランストンをはじめいぶし銀の曲者俳優たちの起用によって作られているのが興味深く、そういった面々がこの貴重な機会に思いきり張りきって演じているのが伝わってきて好印象だったのだが、逆に最たる悪役のゴシップコラムニスト、ヘッダ・ホッパーに名優ヘレン・ミレンを配したのも技ありだった。台詞でもほのめかされていたが、彼女が反共色を強めていった背後に若き日からの積年のスタジオ・システムへの怨念があるらしいことを、ヘレン・ミレンが微妙な横顔の表現で見せていた。
事ほどさように実に適材適所の配役で、キャストの味をよく踏まえた演出をする監督はいったい誰だろうと順不動で気になり出したら、なんとあの『オースティン・パワーズ』『ミート・ザ・ペアレンツ』『奇人たちの晩餐会』などのコメディで鳴らしたジェイ・ローチだったのでビックリした。正直なところこれまでソツのない感じで印象に残らなかった監督だが、本作のうっすらと諧謔を忘れず、ひじょうに明晰かつ快調にシリアスなドラマを描いてゆく手腕はあっぱれだった。しかも、権力に媚びる人物たちを描く際のシニカルさは印象的で、実はこの監督もトランボよろしくずっとヒットメーカーの仮面をかぶって潜伏しつつ、遂にここで毒を吐いたのだろうかと妄想してしまいそうだった。
裏切りや欺瞞への痛覚がテーマである苦み走った本作ながら、くだんの作家トランボを支える妻や娘と一緒に『ローマの休日』や『スパルタカス』などの上映を観に行く描写の反復は心和むものがあった。これも史実の研究書からは見えて来ない劇ならではのディテールだが、密告をよしとせず服役までさせられた一流脚本家の理不尽さに満ちた生涯に、本当にこういう幸福な家族との時間があったことを祈るばかりである。マッカーシズムとその時代を描いた映画作品といえば『追憶』『真実の瞬間』『グッドナイト&グッドラック』『マジェスティック』などが思い出されるが、中でも本作は期せずして出色の出来であった。