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家康は臆病だったので、真田昌幸・信繁父子を恐れていたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大坂城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が臆病な男として描かれている。大坂の陣の際、家康は真田昌幸・信繁父子の存在を恐れていたのか、考えることにしよう。

 慶長5年(1600)9月15日に関ヶ原合戦が勃発すると、東軍を率いた徳川家康は、西軍に勝利した。戦後、西軍の諸将には改易などの厳しい処分が科され、真田昌幸・信繁父子は九度山(和歌山県九度山町)への逼塞を命じられた。

 しかし、慶長19年(1614)10月に大坂冬の陣が勃発すると、信繁は豊臣方に与するため大坂城に入城した。『幸村君伝記』によると、信繁が大坂城に入城した際、家康が大変恐れたという逸話が残っている。その内容は、次のようなものである。

 家康は真田が大坂城に入城したという情報を知ると、「はっ!」と驚き、、そのまま報告した者のところまで行った。この時点では「真田が入城した」ということを知っただけで、それが昌幸なのか、信繁なのか(あるいは両方なのか)はわかっていなかった。

 家康は戸に手を掛けて「真田が籠城したというのか。それは親(昌幸)か子(信繁)か」と尋ねたが、その間は戸がガタガタ鳴るほど震えていたという。

 報告した者が畏まって「昌幸は去年の夏に病死し(3年前の間違い)、子の信繁が籠城しました」と答えると、家康はほっと息をついて、少しばかり安堵の色を浮かべたという。

 家康は戦略家の昌幸を恐れ、その入城に恐怖したのであるが、それが信繁だったと知ると、途端に安心したのである。これまでの戦いで、家康は昌幸に苦しめられたが、子の信繁なら大丈夫だろうと考えたに違いない。

 ところが、家康はガタガタと震え、昌幸の入城に怯えたことを恥と思い、弁明する必要があった。身震いした理由について、家康は次のように釈明している。

「私(家康)が震えたのは、真田(昌幸)を恐れたからではない。関ヶ原合戦後、昌幸・信繁父子を殺すべきところだったが、信之(昌幸の子)が抜群の働きの恩賞に代えて助命を訴えてきた。それゆえ、寛大な私(家康)は2人を助命しただが、またこの度も籠城かと思い、怒りのあまりに体が震えたのだ」

 むろん、この話は信頼度の低い史料に書かれた逸話に過ぎず、事実とは認めがたい。当時、家康は天下人として君臨していたので、牢人生活を送っていた昌幸・信繁父子を恐れるはずがないだろう。

※前近代は「大阪城」ではなく、「大坂城」と書きます。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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