離婚経験がある3人の戦国女性の事情とは?
昨今は結婚する人が減少気味だが、一方で離婚率は増加しており、大きな問題となっている。もちろん戦国時代にも離婚した女性がいたので、そのうち3人を紹介することにしよう。
◎江(1573~1626)
江(崇源院)は、浅井長政とお市の方の娘として誕生した。長政が織田信長によって死に追いやられると、お市の方は柴田勝家と再婚したが、二人は羽柴(豊臣)秀吉により自害に追い込まれた。両親の死後、江は佐治一成(織田信雄の従兄)に嫁いだという。
その後、江は一成と離婚し、豊臣秀勝(秀吉の養子)と結婚した。しかし、秀勝は文禄の役に出陣中に病没した。秀勝と死別した江は、徳川秀忠と再婚して多くの子に恵まれた。江は夫との離婚や死別を経験したが、三度目の結婚で幸せをつかんだのである。
◎朝日姫(1543~1590)
朝日姫は、豊臣秀吉の妹である。朝日姫の最初の結婚相手は、佐治日向守といわれている。あるいは、織田家家臣の副田吉成という説もあるが、婚歴があるのはたしかであろう。天正14年(1586)、秀吉は徳川家康との関係を強固にしようと考えた。
そこで、朝日姫を強制的に離婚させ、家康に嫁がせたのである。これは政略結婚であり、事実の人質だった。結局、朝日姫は40代という年齢も影響したのか、家康との間に子が生まれなかった。こうして天正18年(1590)、朝日姫は病没したのである。
◎糸姫(1571~1645)
糸姫は、蜂須賀正勝の次女として誕生した。糸姫が黒田長政(官兵衛の子)と結ばれたのは、天正12年(1584)のことである。間を取り持ったのは豊臣秀吉で、有力な家臣である黒田家と蜂須賀家の紐帯を強めようと画策したのだろう。
慶長5年(1600)、徳川家康が会津征討のため出陣すると、長政は糸姫と離婚して、栄姫(保科正直の娘)を継室とした。長政は蜂須賀家と敵対していたわけではなく、離婚までさせた理由は不明である。その後、糸姫は阿波国に戻り、再婚することはなかった。