「Bチーム」から目指す「プロ野球選手」:「トライアウトリーグ」という若者の夢の巣箱(前編)
「目標はあくまでメジャーリーグです。かなり果てしない所ではあるんですけれども、つかみたいと思います」
と言って井神力は、今年も海を渡った。とはいうものの、彼の立つフィールドには、「プロ野球」の言葉から連想される華やかさなどみじんもない。スタンドの観客は数十人。ファンと言うよりフィールドにいる選手の縁者がほとんどのようだ。これで一体どうやって儲けているのだろうと誰もが心の隅で感じているのだろうが、それは選手たちの関心事ではない。彼らは、真夏の蜃気楼のような夢を追いかけ、今年もこのエンパイアリーグに集まってきた。今年23歳になる井神も、アルバイトで貯めた貯金を切りくずして航空券とグラブ片手にデラウェア州の片田舎のフィールドにたどり着いた。
独立リーグというプロ野球
幾重にも重なるアメリカプロ野球の層は厚い。オフの間にMLBと契約を結んだ選手たちは、ひと月余りにわたるキャンプでふるいにかけられ、ある者は解雇され、ある者は契約に満足せず自らフリーエージェントを選ぶ。ある程度経験を積んだベテランの場合、トップチームの戦力としてメジャー契約を結んだ者以外には、「二軍」である3Aの頭数合わせくらいしか与える仕事がなく、腕に自信のある選手は、トップリーグでプレーする見込みのないマイナー契約を提示されると、球団を出ていく。マイナーリーグには2A以下のクラスもあるが、ここは本質的に若い選手を育てる場所で、プロ生活を重ねながらモノにならなかった選手を置いておくスペースはほとんどない。
MLB球団を飛び出したベテランが選ぶのが、独立リーグという「もうひとつのプロ野球」である。MLBの枠外にあるこのプロリーグでは、選手たちはメジャー球団の契約に縛られることはない。だから、長いシーズンでMLB球団に欠員が出たときに、ここでプレーしていれば、どこの球団にも移籍できる。そこで、MLBのロースターから外れた選手は、捲土重来を期して、4月半ば以降に始まる独立リーグのキャンプに参加し、少し遅い開幕を迎える。
独立リーグに参加するのは、腕に覚えのあるベテランだけではない。マイナーの時点で球団から見切りをつけられた者もまた、夢をあきらめきれずここに集う。
そういう者たちが、4月以降、再びふるいにかけられ、各々が契約を結んだリーグで順次開幕を迎えていく。そして、6月のアマチュアドラフト終了後にルーキーリーグ開幕をもってアメリカのプロリーグが出そろうのだが、井神の参加するエンパイアリーグは、その後、6月末に遅い開幕を迎える。つまりはそういうリーグなのである。
下がってきた「プロリーグ」のレベルの下限
いったん消滅した独立リーグが北米で「復活」して早四半世紀。これまで幾多のリーグが興亡を繰り広げてきた。シーズン途中で消滅してしまったリーグなど珍しくもなく、中には開幕直前に主催者が「夜逃げ」同然で霧散してしまったものもあるという。そういう中、現在、アトランティックリーグ、アメリカン・アソシエーション、カンナムリーグ、フロンティアリーグが安定した運営を続けており、「四大独立リーグ」とされている。これらのリーグは、MLB球団との契約を結べなかった者が、「本物」のプロ野球であるMLB球団との契約を目指して集う場所であるのだが、これらのリーグが「プロ野球」として認知されるようになると、今度はこの四大リーグとの契約を目標にした独立リーグが誕生することになる。そういうリーグのプレーレベルは推して知るべしで、当然報酬も極端に低い。低いというよりないも同然である。しかし、「プロ野球選手」という若者の「夢の需要」が
なくなることはない。子供の頃から抱いた夢のステイタスと、「もしかしたら」というかすかな望みのため、若者たちはそういう新興独立リーグに吸い寄せられる。その姿は、端から見ればもはやモラトリアムの延長でしかない。
そういう場所に「プロ野球」を期待して足を運べばほとんどの人が驚くだろう。荒れたフィールドに簡易のパイプ製の桟敷席しかない球場。そこで展開されているアマチュアレベルのプレー…。
それでも、彼らは汗を流しながら懸命に白球を追っている。人は彼らがプレーする場を「Appendix (付録)」リーグと呼ぶ。
井神力は、同級生たちが大学を卒業し、慣れないスーツを身にまといサラリーマン生活に悪戦苦闘する中、ユニフォーム姿で汗と泥にまみれる夏を今年も送ろうとしている。
「Bチーム」から「プロ野球選手」へある青年のあくなき挑戦
多くの少年がそう思うように、井神も小学生になる頃にはプロ野球選手という夢を抱くようになっていた。巨人軍の主砲としてバッターボックスに仁王立ちするスラッガーの姿にあこがれ少年は、やがてそういうスラッガーをねじ伏せることのできるマウンドに魅力を感じることになった。
文武両道を行くような努力家の井神に、中学の教師は名門大学の付属校を勧めたが、井神が選んだのは、隣県の強豪校、報徳学園だった。しかし、部員100人を超える大所帯で、スカウトを受けて入学したわけでもない井神の存在が目立つことはなかった。入学時の同期70人が気が付けば半分に減っていたというほど過酷な練習にも井神は根をあげることはなかったが、結局、万年Bチーム(二軍)のまま、高校生活を終えてしまう。最終学年の春、チームは春の選抜に出場したが、それも憧れの甲子園のアルプススタンドからチームメイトに声援を送るだけに終わった。フィールドの要にいた捕手の岸田行倫は、のち大阪ガスから巨人にドラフト2位で入団している。
最後の夏が終われば、球児たちは次の進路に目標を切り替える。高校トップレベルでもまれた彼らは、その中で己を知り、身の丈に合った進路を指導者とともに模索する。高校野球を含め教育の場とはある意味、あきらめを覚える場でもあるのだ。しかし、井神は違った。プロ志望届を提出したのだ。
「高3で本気で目指そうと思ったんです。最後にベンチに入れなかった時、レギュラーメンバーより実力が下なんだけれども、こいつらに負けたくない、こいつらを見返したいと思って、絶対にプロ野球選手になろうと思ったんです」
実際は高校2年の冬あたりから行動は起こしていた。高校の公式戦出場なしという状況では、プロ野球(NPB)からのドラフト指名の可能性はほとんどゼロに近い。そこで井神は、プロのすそ野の広いアメリカに活路を求めた。インターネットで、トライアウトの情報を調べたところ、トライアウトリーグと呼ばれる、プロ志望者を集め、プロ球団のスカウトの前でプレーさせる「ショーケース(見本市)」が開かれていることを知った。彼は、高校野球が終わればそこにチャレンジすることを決めた。
進路相談で、井神の突拍子もない夢を聞かされた担任教師は開口一番、「ばかもーん」と声をあげたが、井神の意志は変わらなかった。最後の夏が終わった後、野球部でも進路相談が始まるのだが、自分の進むべき道は決まっているからと、井神はこれも受けようとしなかった。海を渡るという井神の決心を聞いた野球部の指導者は、独立リーグに挑戦するならプロ志望届だけは出すようにとだけ指示した。担任教師は、学業成績も良かった大学進学を勧めたが、井神には、大学でのプレーは魅力的に映ることはなかった。
「僕の目標はプロ。みんなを追い越していかなければなりません。でも、先輩なんか『楽しい』とか『余裕やで』なんて話を聞くと、大学生活に燃えるものを感じなかったんです。ハングリーな状況でやらないとダメだと思ったんです」
2015年1月、井神はカリフォルニア・ウインターリーグというトライアウトリーグに参加した。総費用約40万円は、バイト代と父親からの借金で賄った。最後の夏が終わった後は、野球を届けるほとんどの球児にとってつかの間の羽を伸ばせる時期なのだが、井神は、連日のアルバイトとトレーニングに費やした。
ウィンターリーグでは、約1か月、数チームに分かれた若者たちが連日の試合をこなす中、やって来るMLB、独立リーグのスカウトから声かかるのを待つのだが、井神には声がかかることはなかった。
「そこそこできるのかなと思っていたんですけれども、全く通用しませんでした。高校野球と違ってストライクゾーンも小さく、ボールも大きくて滑るし、マウンドは硬くて傾斜がきつかったですし。全く自分のベストボールを投げることはできませんでした」
そういう現実も井神は前向きに考えた。もともとこのリーグを紹介してくれた人物からも高校を卒業した時点ですぐに通用することはないと言われていたこともあり、むしろ「本番」である次の年に向けてのいい経験だと初めてのアメリカでの経験をとらえた。それよりも、「ボールパーク」のイメージそのままの青々としたフィールドは、決意をさらに固めた。
帰国後、井神は高校を卒業した。そして1年間、フリーターをしながらクラブチームでプレー。稼いだ金は、借金の返済と翌年に向けた貯金に回した。大学生活を謳歌する同級生の姿は目に入ることはなかった。
そして迎えた2年目の冬、渡米を控えた井神に悲劇が襲いかかる。少しでも費用を稼ごうと、出国当日の朝までバイトをしていた井神は、ここでバイク事故を起こしてしまう。
顎を割って血だらけになりながらも、朦朧とする中、アメリカに行くんだと言い続ける井神に手術を施した医師は、術後、「飛行機に乗っても大丈夫ですか?」という井神にあきれながらも、わずか1週間でアメリカに送り出した。
なんとか途中参加したものの、事故の後遺症のため、体はいうことをきかなった。到着後、すぐに登板の機会が巡ってきたが、このマウンドの後、井神は野球どころではなくなり、ベッドで寝たきりになってしまった。この冬もプロリーグとの契約を勝ち取ることはできなかったが、この登板で2イニングをパーフェクトという結果を目にしたスカウトから声がかかった。
いったん帰国した井神は春を待って再びフライトに飛び乗った。行き先は「野球不毛の地」、ヨーロッパ。プレーレベル向上のための外国人選手を探しにウィンターリーグにやってきたオーストリア代表の日本人監督の目に留まった井神は、「助っ人」として現地トップリーグに参加することになった。「助っ人」と言っても、監督の家に住み込み、ギャラはなく、生活は自弁というものだったが、同じく住み込んでいたもうひとりの日本人選手に節約術を教えてもらいながら、日本で貯めた20万円でなんとか半年のシーズンを乗り切った。「高校野球以上大学野球未満」のリーグでの経験に井神は確かな手ごたえを感じた。
帰国後、井神は日本の独立リーグに挑戦した。秋に行われたトライアウトを受験したが、合格を勝ち取ることはなかった。それでも、ヨーロッパでプレーする中、知り合った上園啓史が監督に就任することになった新球団・滋賀ユナイテッドに練習生として参加することになった。ユニフォーム代自弁、報酬はなく、深夜、居酒屋でバイトをしながら仮眠の後、練習に参加するというものだったが、ここでも井神はプロ選手としての契約を結ぶことはなかった。
それでも彼は、「プロ野球選手」という夢の実現に向けてさらなる行動にでる。
(続く)
(写真は筆者撮影)