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AC/DCからプレスリーまで。スーパー・ドラマー、クリス・スレイドが語るその軌跡と新作【前編】

山崎智之音楽ライター
Chris Slade /courtesy Bravewords Records

AC/DCやユーライア・ヒープ、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ギルモア、ゲイリー・ムーアなどとの共演でロック界を揺るがしてきたパワフル・ドラマー、クリス・スレイドがリーダー・バンド:ザ・クリス・スレイド・タイムラインを率いてファースト・アルバム『Timescape』を発表した。

CD2枚組の1枚目がオリジナル中心、2枚目がクリスが歴代のバンドで演奏してきたナンバーという構成。ハード・ヒッティングなドラムスをフィーチュアしたソリッドなヘヴィ・ロックの新曲から「サンダーストラック」「七月の朝 July Morning」「光で目もくらみ Blinded By The Light」などのクラシックスまでを楽しめる作品となっている。

1946年生まれの78歳。芸歴60年を迎えるクリスが全2回のインタビューで、トム・ジョーンズやエルヴィス・プレスリーから現在に至るタイムライン(=軌跡)を振り返ってくれた。まずは前編を。

The Chris Slade Timeline『Timescape』ジャケット(Braveword Records/現在発売中)
The Chris Slade Timeline『Timescape』ジャケット(Braveword Records/現在発売中)

<バンド全員が素晴らしいミュージシャンシップの持ち主>

●アルバム『Timescape』の音楽性をどのように説明しますか?

アルバムの楽曲には“自分自身を信じるべきだ”というメッセージが込められている。社会には他人にマウントして、隙あらば背中から刺そうとする奴が必ずいる。インターネットなんかはそういう連中ばかりだ。そんな奴らからの中傷には耳を貸すべきではないんだ。そんなことを歌っているから音楽もパワフルだし、ポジティヴさが貫かれているよ。「Time Flies」はどこからか判らないところからインスピレーションが浮かんだし、ギタリストのジェイムズ・コーンフォードとキーボード奏者のマイク・クラークが書いた「End Of Eternity」もそうだ。私はコード進行を書けないし、自分の求めているムードを彼らに伝えて、曲にしてもらうんだ。多くの曲はマイクのホーム・スタジオでデモを作って、それを基にしてレコーディングしたんだ。

●タイムラインのメンバーについて教えて下さい。

バンド全員が素晴らしいミュージシャンシップの持ち主で、すごくタイトなんだ。ギタリストのジェイムズ・コーンフォードとキーボード奏者のマイク・クラークは35歳だけど、11歳の頃から一緒にプレイしてきた。彼らはジェネシスやカンサスのカヴァーもやっていたし、多彩なテクニックを持っている。バンドには2人のシンガーがいるんだ。バン・デイヴィスはAC/DCタイプの曲を歌えるし、ベーシストと兼任のスティーヴィ・ジーはメロディックな、ユーライア・ヒープやマンフレッド・マンのような曲を歌っている。私のキャリアを総括するライヴだから、いろんなスタイルに対応出来る必要があるんだ。AC/DCからトム・ジョーンズまでね(笑)。2012年から、もう12年ぐらい一緒にやっているんだ。2015年から2016年までAC/DCのツアーに同行したんで活動を休止したけど、それ以外はずっとやっている。

●ファースト・アルバムを出すまでこれだけ時間がかかったのは何故ですか?

これまで何度かスタジオに入ってAC/DCやユーライア・ヒープの曲をカヴァーしてみたことがあったけど、アルバムを出すならオリジナル曲を書くべきだと考えていたんだ。基本的にまず私がアイディアを出して、他のメンバー達が完成させていった。「We Will Survive」は彼らが書いたけどね。それで時間がかかってしまった。

●あなたは長年さまざまなバンドでドラムスをプレイしてきましたが、ずっと曲を書いてきたのですか?

断片的なアイディアはあったけど、それを曲にまとめてこなかったんだ。いろんなバンドでツアーやレコーディングするのが忙しかったからね。『Timescape』では多彩なスタイルの音楽をやっているけど、共通するものがあるとしたらマンフレッド・マンズ・アース・バンドかもね。特定のスタイルにこだわることなく、良い曲ならヘヴィでもポップでもレコーディングしたよ。

●アルバム用に新曲を書いたのですか?それともライヴ・レパートリーだったのですか?

「Back With A Vengeance」は数年前からライヴでやってきたんだ。「Questions」と「Joybringer」はマンフレッド・マンズ・アース・バンド時代に共作した曲のリメイクだよ。ブルース・スプリングスティーンのカヴァー「光で目もくらみ Blinded By The Light」もディスク2でやっているけど、アース・バンドのみんなで手がけたアレンジなんだ。『静かなる叫び The Roaring Silence』(1976)はとても気に入っているアルバムだし、セールスも好調だった。

●『Timescape』のディスク2ではAC/DCの「地獄の鐘の音 Hell’s Bells」、ユーライア・ヒープの「七月の朝 July Morning」、マンフレッド・マンズ・アース・バンドの「光で目もくらみ」などをプレイしていますが、どのような基準で選曲したのですか?

私のキャリアにおいて、ステージでプレイしてきた代表曲だよ。タイムラインのライヴで演奏している曲が主で、レコード会社からAC/DCの曲を多めにして欲しいとリクエストがあった。スタジオでレコーディングしたけど、ライヴ形式で録ったんだ。オーヴァーダブもしなかった。

●オリジナルとアレンジを変えたりしましたか?

ほとんど変えていないな。あまり名曲をいじって台無しにしたくなかったし、特にAC/DCの曲は改変しようがなかったんだ。

The Chris Slade Timeline / courtesy Bravewords Records
The Chris Slade Timeline / courtesy Bravewords Records

<エルヴィス・プレスリーに誘われたんだ>

●あなたのプロ・キャリアの原点といえるトム・ジョーンズとの活動について教えて下さい。

私がプロのミュージシャンになったのが1963年、トムのバンドでのことだった。彼がまだトム・ジョーンズと名乗る前だよ。ウェールズの同じ村で育ったんだ。もう60年前の話だよ!

●あなたはトム・ジョーンズの1960年代の一連のヒット曲でプレイしているのですか?「サンダーボール Thunderball」「思い出のグリーン・グラス Green, Green Grass Of Home」「よくあることさ It’s Not Unusual」とか?

「サンダーボール」には私は関わっていないと思う。当時はトムのバンドだけでなく外部のセッション・ミュージシャンを呼んでくることもあったけど、「よくあることさ」のレコーディングに参加したのは覚えているよ。ただプロデューサーがサウンドを気に入らず、セッション・プレイヤーを使って何テイクか録ったんで、私のドラムスが使われたか判らないんだ。普通なら自分のプレイは聴けば気付くけど、なんせ大昔の話だからね...。ジミー・ペイジも参加していた。まだレッド・ツェッペリンを結成する前で、彼はセッション・ギタリストだったんだ。すごい売れっ子で、1日に2、3つのセッションをこなしていたらしいよ。トムのアルバムでジョン・ポール・ジョーンズがベースを弾いたこともあった。彼もまたセッション畑では有名で、イギリスで唯一アメリカのソウルのランを弾けるプレイヤー、そして優れたアレンジャーでもあったんだ。確か『13 Smash Hits』(1967)というアルバムだった。残念ながら参加メンバーは一切クレジットされていないけどね。

●当時からジミーと友人で、それが1984年のザ・ファームの結成に結びついたのでしょうか?

いや、そういうわけ ではなかった。セッション・ミュージシャンはスタジオに入って自分のパートを弾いて、終わったら次のセッションに行く...というパターンだったから、顔も会わさないことが多かった。同時にレコーディングしても、それぞれ別のブースに入っていたりね。だからペイジー(注:ジミーのこと)と知り合ったのはザ・ファームを結成したときだったんだ。ある日、彼が電話してきたんだよ。ポール・ロジャースのことはそれ以前から知っていた。私がマンフレッド・マンとやっていた頃、フリーと一緒に2週間のオーストラリア・ツアーをやったんだ。ディープ・パープルがヘッドライナーだった。彼も私も日本の武道に興味があって、いろいろ話して友達になったよ。

●「よくあることさ」は映画『マーズ・アタック!』(1996)で使われ、トム・ジョーンズ自身も出演していましたが、ご覧になりましたか?どう思いましたか?

いや、テレビで断片的には見たことがあるけど、全編通しては見ていないんだよ。トムは子供の頃から知っているんだ。私より6歳ぐらい年上だから“友達”という感じではなかったけど、兄貴が同じ学校に通っていた。それに私の父親がタップ・ダンサーでシンガーだったから、トムと一緒にコンサート・パーティーをやったことがあって、知り合いだったんだ。当時の彼はトミー・スコットと名乗っていたよ。彼は800メートルぐらいの近所に住んでいたんで、一緒にやるようになった。そうして彼は世界的な成功を収めて、私もバック・バンドで同行したんだ。

●エルヴィス・プレスリーと会ったエピソードについて教えて下さい。

トムとのツアーでラスヴェガスに行ったんだ。そのときエルヴィスが見に来て、終演後にバンド全員をパーティーに招いてくれた。取り巻きの“メンフィス・マフィア”もいて、みんなでビールを飲んだよ。エルヴィスはビールを少しとサンドイッチを食べた程度で、強い酒は飲んでいなかったし、ドラッグもやっていなかった。とても静かで礼儀正しい人だったね。あまり長くは話せなかったけど、トムとエルヴィスと私で写真を撮ったし、空手のことも少しだけ話した。その後、エルヴィスのバンドに誘われたりもしたんだ。

●それは凄い話ですね!

エルヴィスはトムのショーを見て、私のドラムスを気に入ったそうなんだ。それで彼のマネージャーだったパーカー大佐が連絡してきた。私はやる気まんまんだったけど、トムのマネージャーのゴードン・ミルズがストップをかけてきた。彼はパーカー大佐と知り合いだったし、私にまだ契約が残っていると言ってきたんだ。トムとバンドは良い関係を築いていたし、メンバーを替えることでそれを崩したくなかったんだろうね。それに1960年代のトムは本当に凄まじい人気だったんだ。エルヴィスとフランク・シナトラを合わせたぐらいのスーパースターだったんだよ。だから説得されて、残ることにしたんだ。それから数年して、結局辞めることになったけどね。

●1960年代にザ・ビートルズとの交流はありましたか?

一緒のライヴに出演したことがあった。音楽紙“NME”主催のコンサートでザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズ、トム・ジョーンズなどが10分ライヴをやったんだ(1965年4月11日、ウェンブリー“エンパイア・プール”)。当時まだウェールズ出身アーティストがヒットを飛ばすのは珍しかったから、全員ウェールズ人のトムのバンドで演奏したのは誇りに思ったね。

●ザ・ローリング・ストーンズとの関係は?

私のプロとして初のライヴはトムのバンドで、ロンドンの“タイルズ・クラブ”でストーンズの前座を務めたときだった(おそらくこれは勘違いで、実際には1964年7月18日、“ビート・シティ”公演の筈)。お客さんがギュウギュウ詰めで、みんな汗だくだった。私は彼らがチャック・ベリーの「カム・オン」でデビューした頃からのファンだったから、すごく興奮したよ。実は彼らの1960年代のライヴはあまり好きではなかったけど、5年ぐらい前にパリで見たときは最高だと思ったよ。

●映画『オリビア・ニュートン・ジョンのトゥモロー』(1970)に出演したのはどんな経緯でしたか?

自分L世界を広げたくて、トム・ジョーンズのバンドを辞めたとき、当時若手だったオリビアの映画プロジェクトの話をもらったんだ。私はカール・チェンバースという人の代役でドラムスを叩いて、スクリーンには映らなかったけど、リハーサルや映画の宣伝イベントではプレイした。オリビアは素晴らしいシンガーで、とても話しやすい人だった。まだ若かったし、まさかあれほどのスーパースターになるとは思いもしなかったよ。

●あなたは1970年代にマンフレッド・マンズ・アース・バンドで活動してきました。“アース・バンド”というバンド名を考えたのはあなただったといわれますが、どんな意味が込められていたのですか?

あのバンドを結成した頃はまだヒッピー思想が残っていたんだ。当時はまだ私も肩まで髪を伸ばしていた(笑)。音楽で地球をひとつにする...みたいな考えがあったんだ。それにMannとBandが韻を踏むのも理由だった。まあ、それほど深い意味はないんだけどね。そうそう、ザ・ファームというバンド名も私が考えたんだよ。思いつきで提案したらジミーが「それ、良いね!」と言って、そのまま決定したんだ。

●フランキー・ミラーの代表曲「ダーリン」(1978)でドラムスを叩いているのはあなたですか?

そう、私だよ。確かアルバム全曲でプレイしたんじゃないかな(『フォーリング・イン・ラヴ』<1979>)。

●当時フランキーのツアー・バンドの一員だったフラン・バーンもアルバムのドラマーとしてクレジットされているので、どちらかな?と思いました。

「ダーリン」で叩いたのは記憶に残っているよ。こう見えても私は柔軟にいろんなスタイルに対応できるんだ。AC/DCでプレイした翌日にトム・ジョーンズから声がかかっても大丈夫だよ(笑)。元々私はバディ・リッチに憧れてドラムスを始めたんだ。ジンジャー・ベイカーやコージー・パウエルもそうだけど、イギリスのロック・ドラマーはバディから影響を受けた人が多いよ。彼は柔軟性のあるドラマーだった。

●あなたが本格的にハード・ロックをプレイするようになったのはユーライア・ヒープの『征服者 Conquest』(1980)でしたが、それはどのような経験でしたか?

アース・バンドで彼らと一緒にツアーしたことがあって、ユーライア・ヒープとは知り合いだったんだ。で、マンフレッドが引退して、バンドが解散することになった。でも私はまだ音楽を続けたかったんで、ヒープのオーディションを受けることにした。結局マンフレッドは家にいるのに飽きたのか、新しいメンバーを集めてアース・バンドを再始動していたけどね。

●1984年にデヴィッド・ギルモアの『アバウト・フェイス』ツアーに同行したのは?

『アバウト・フェイス』ではジェフ・ポーカロがドラムスを叩いていたけど、TOTOが忙しくて、ツアーには参加できなかったんだ。それでバッド・カンパニーのミック・ラルフスが私を推薦してくれた。デヴィッドは音の“間”を生かすのが得意なギタリストだね。

後編記事ではクリスにザ・ファーム、ゲイリー・ムーア、AC/DCなどとの逸話を語ってもらおう。




【最新アルバム】

The Chris Slade Timeline

『Timescape』

(Bravewords Records / 現在発売中)

https://bravewordsrecords.com/

【公式サイト】

https://chrisslade.com/

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,300以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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