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さあ、夏! 高校野球・新天地の監督たち/3 岐阜第一 田所孝二

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

とにかく、おしろい人だ。青年海外協力隊として、グアテマラで野球を指導した経歴からして異色。甲子園そばのお好み焼き屋で出会ったとき、そのしゃべりには腹を抱えた。高校時代に指導を受けた社会人選手に水を向けると、「監督という感じじゃないですよね」。田所孝二。1996年から福知山成美(当時は福知山商)を率い、99年に京都北部勢として初めて夏の甲子園に出場すると、春夏つごう6回大舞台を踏み、2006年夏、14年春にはベスト8まで進出した。

だが、その14年センバツ。準々決勝で履正社に敗れると、辞意を表明した。校内人事で次期校長に決まり、校務との兼ね合いで監督との両立がむずかしい、という理由だった。最終的にその年の夏、京都府大会では指揮を執ったが、4回戦で乙訓に逆転サヨナラ負け。校務で練習を十分に見られなかった不完全燃焼の火が、現場復帰に燃え移る。そして成美で最後の教え子を送り出した今年度、肩書きのない一教員として岐阜第一に赴任し、監督となった。

「どうも! お好み焼き屋でお会いしましたね」

田所は、そう話し出した。

「成美で定年まで校長をやり、そこからもう一度監督、という選択肢もあったでしょうが、性に合わなかった。さいわい心身ともに丈夫で、60歳までの4年間がもったいない。ただ、やるにしても京都では仁義を欠くし、大阪では毎年西谷(浩一・大阪桐蔭監督、関西大の後輩)にコールド負けするのもいややし……(笑)」

もともと、高校野球の指導者になるつもりはなかった。関西大から社会人の日本新薬で活躍し、引退後は青年海外成年協力隊でグアテマラに派遣され、ナショナルチームのコーチも務めた。すると指導する立場ながら、細かいことは気にしない南米の野球に大きく影響を受けたという。

わっ、高校野球って怖いな……

帰国後の95年、たまたま夏の京都大会を見に行くと、平安(現龍谷大平安)が2回戦で敗れた。率いるのは、日本新薬で1歳下の原田英彦。1年生の大型左腕・川口知哉(元オリックス)を育てるために先発させたが、なんと初戦敗退である。名だたる古豪であり名門だけに、試合終了後、球場の外では原田がファンに取り囲まれ、罵声を浴び、なかなか解放されなかった。わっ、高校野球って怖いな……そう思った。

それが、ひょんなきっかけで教師として福知山商に職を得ると、監督を引き受けるハメに。ただ、4年目に甲子園に出場すると、福知山市民に大いに喜ばれた。

「ちょうど校名変更を控えた時期で、もし甲子園に出ていなければ新しい校名には福知山の名前はつかず、単なる成美高校になっていたらしいですわ」

いわば福知山成美の功労者として、20年近く監督を務めたあとの校長就任だったわけだ。

ただ先述のごとく本人は、校長という立場より野球の現場に後ろ髪を引かれていた。実は野球関係者には、「2年で現場に復帰する」と意向をもらしており、その噂はこちらの耳にも届いている。さて、どこを率いることになるのか……と注目していると、京都からさほど遠くない岐阜に指導の場を得たという。で、会いに行った。

「ここ(岐阜第一)は設備も充実しているし、強い弱いやなしに、野球をする環境としては抜群ですよ。拾っていただいた、というありがたさを感じますね」

確かに、敷地内にある球場は両翼95メートル、スタンドや来賓室まで整備されており、「僕の感覚では、スタジアムですわ」と、存分に腕を振るえる。南米野球の洗礼を受け、気持ちよくバットを振ろう、という野球が身上。それでも「基礎からやって、ダメなところは繰り返していく」(青木貫太主将)と、まずは最低限の基本から徹底した。岐阜第一は、83年の夏以来甲子園から遠ざかっているが、140キロ右腕の猪俣航や、通算20本以上の大砲・高田宏政ら、「成美でもレギュラークラスの子が3、4人」いて、練習試合では京都の有力校とも五分の戦いができている。

「そんなに弱ないですよ、このチーム。きてすぐ、4月3日に大阪桐蔭と練習試合をやったんです。先頭打者に、いきなりホームラン。こりゃ15点くらい取られるか……と思いましたが、そこから踏ん張って、負けはしたものの1対3です。それにしても、桐蔭の人気はすごい。スタンドが満員で選手たちも喜んだし、校門前のおにぎり屋さんは売り切れで喜んだらしいですわ」

オチをつけるのが、この人らしい。

岐阜と言えば名門・県岐阜商をはじめ中京、大垣日大……と、強豪がずらりだ。組み合わせ抽選は、今日。だが、そうしたチームとの対戦はむしろ楽しみだという。ときには、選手とともに金華山頂上にある岐阜城までランニングする田所。歴史の先生として、こんなことも言った。

「岐阜城と言えば、織田信長。丹波の領主になった明智光秀も、もともとは美濃(岐阜)の出ですね。丹波時代は、善政で福知山の領民に慕われたといいます」

つまりは……福知山から岐阜に移った田所がやがて、光秀のごとく信長を倒して天下を取る、ということか。そういえば岐阜城の天守閣からは、県岐阜商のグラウンドが見下ろせる。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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