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暗殺が横行した鎌倉時代。無念にも消された3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 ロシアで獄中にあった反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏が急死した。暗殺も疑われているが、真相はどうなのだろうか。鎌倉時代は暗殺が横行した時代で、嫌疑不十分ながらも消された武将がいたので、そのうち代表的な3人を取り上げることにしよう。

◎上総広常(?~1183)

 治承4年(1180)、源頼朝が大庭景親との戦いに敗れて安房国に逃れた際、上総国の豪族・上総広常に味方になるよう要請した。

 広常は約2万の軍勢を引き連れて参上したが、頼朝に将としての器がなければ、討とうと考えた。しかし、頼朝は広常の遅参を手厳しく注意したので、かえって広常は頼朝に恭順の意を示したという。

 寿永2年(1183)12月、広常は頼朝から謀反の疑いを掛けられ、鎌倉の御所内で殺された。頼朝から殺害の指示を受けた梶原景時は、双六に興じているときに広常を暗殺したという。

 翌年1月、広常の鎧から、頼朝の武運長久を祈念する願文が見つかった。頼朝は広常を討ったことを後悔し、残った一族を許したという。

◎阿野全成(1153~1203)

 阿野全成は、源頼朝の弟である。『吾妻鏡』建仁3年(1203)5月19日条によると、全成は謀反の嫌疑で武田信光に捕らえられ、身柄を宇都宮四郎兵衛に預けられた。

 2代将軍の源頼家は全成を敵視していたので、先手を打ったのだ。全成の妻の阿波局を呼び出して事情を聴いたが、阿波局は詳しいことを知らないと答えた。

 同年2月頃、全成は駿河国に下向して連絡が取れなかったが、特に疑うところはなかったといわれているので、全成は嫌疑不十分だった可能性がある。

 同年5月25日、全成は常陸国に流され、6月23日に下野国で八田知家に暗殺された。知家に殺害を命じたのは、頼家だった。全成の子の頼全も、佐々木定綱に京都で討たれたのである。

◎一条忠頼(?~1184)

 一条忠頼は、武田信義の子である。寿永3年(1184)1月、忠頼は源頼朝に敵対していた木曽義仲を追討すべく、軍勢を率いて出陣していた。忠頼は父とともに、頼朝に従っていたのだ。

 元暦元年(1184)6月16日、忠頼は突如として鎌倉で殺害された。酒宴に招かれたところ、天野遠景らに討たれたと伝わっている。

 忠頼が殺害された背景には、どのような事情があったのだろうか。忠頼が殺害された理由については、『吾妻鏡』に「威勢を振ふの余りに、世を濫る志を挿む」と書かれているにすぎない。

 忠頼は威勢を振るい、頼朝への謀反を画策していたようだが、実際は頼朝が甲斐源氏の存在を恐れて殺害したといわれている。つまり、無実だった可能性がある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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