【戦国こぼれ話】卒業シーズン真っ盛り。戦国時代の武将たちが一人前と認められたのは何歳なのか
すっかり卒業シーズンである。卒業後に進学する人、就職する人など進路はさまざまである。ところで、戦国時代の武将たちは、元服して一人前と認められた。今回は、代表的な戦国大名の元服について考えてみよう。
■著名な武将の元服
甲斐の虎と恐れられた武田信玄は、天文2年(1533)に13歳で結婚した。『妙法寺記』(『勝山記』とも。富士山北麓地域の年代記)によると、信玄は父・信虎の政略により、扇谷上杉家当主・上杉朝興の娘を娶った。しかし、信玄の新妻は、その翌年に子供を身籠ったまま、亡くなったと伝えている。
『諸家系図纂』『武田系図』によると、信玄の初陣は、天文5年(1536)12月の16歳のことだった。信州の海ノ口城(長野県南牧村)を攻め落としたと伝える。
尾張の織田信長の場合は、どうだったのであろうか。信長が元服を済ませたのは天文15年(1546)のことで、13歳だった。
元服式の様子は、信長の事績を記した『信長公記』(太田牛一著)にも詳しく記されている。その後、信長は結婚したが、当時の慣習に従い、政略結婚であった。
信長の父・信秀は、「美濃のマムシ」と恐れられた斎藤道三と和議を結ぶため、その娘である濃姫(帰蝶)を信長と結婚させた。結婚の時期は天文17年(1548)のことと推定されているので、信長は15歳だった。
徳川家康の場合は、もっともオーソドックスだったのかもしれない。家康は弘治元年(1555)に14歳で元服すると、その2年後に今川家の家臣・関口親永(義広)の娘と結婚した。のちの築山殿である。
この結婚も政略結婚であったことは、当時の家康と今川氏の関係を考えると明らかであろう。永禄元年(1558)、17歳になった家康は無事に初陣を果たし、手柄を立てている。
しかし、天正7年(1579)、家康は築山殿と子の信康を殺害せざるを得なくなり、悲しい結末を迎えたことは、よく知られている。その理由は諸説あって、現在も不明な点が多い。
■変わり種の吉川元春
少し変り種の人物もいる。毛利元就の次男・吉川元春の初陣は何と12歳で、元服前であった。天文10年(1541)、父の元就が尼子氏と戦った際、周囲が引き止めるのを押し切って、参陣したと伝わっている。
元春は14歳で元服を済ませると、18歳で安芸の国衆の熊谷信直の娘を娶り、その翌年には子が生まれている。もちろん、毛利家と熊谷家の関係を深めるための政略結婚である。ところが、元春の妻は、容姿が非常に醜かったと伝わっている。
元春は粋なことに、醜いのを承知で妻に迎えたらしい。それはなぜか。醜い妻を大事にすれば、本人はもとより、その親も忠勤に励むと考えたからである。
たしかに、美人は3日で飽きるが、ブスは飽きないという。妻を大事にすれば、きっと夫のために懸命に尽くしてくれるかもしれない。
顔よりも心というが、むしろ戦国に生きる知恵、あるいは打算の産物とでもいうべきなのであろうか。播磨の赤松政則の後妻・洞松院尼もまた醜い容姿で知られていた。政略結婚という厳しい制約のなかでは、容姿までも選ぶ余地がなかったに違いない。
■気の毒な豊臣秀頼
戦国の世が終焉を迎えつつあった16世紀末から17世紀初頭、豊臣秀吉の子・秀頼の初陣は、何と23歳という大変遅いものであった。理由は簡単で、もう戦争の時代は終わっていたからだ。
秀頼は武将らしく武芸の訓練を積んでいなかったせいか、非常に大柄で肥満気味であったと伝えている。秀吉のたった1人の男子として愛され、また母・淀殿も寵愛していたゆえだろうか。
しかし、女色のほうは盛んであったといわれ、正室の千姫(徳川秀忠の娘)のほかに、愛妾も抱えていたという。この事実に対して、戦国史家の桑田忠親氏は、実に手厳しい評価を行った。
ただ、豊臣家は慶長20年(1615)の大坂夏の陣で滅亡したので、後世における秀頼や母の淀殿の評価は不当に貶められるなど、誤ったものが多いという。実際の研究に基づいた秀頼の評価は、そんなに酷いものではないことを付記しておく。