愛する人が産まれ、死ぬ場所は、“工場”であってほしくない。『ルージュの手紙』
今回はフランスの大女優、カトリーヌ・ドヌーブ&カトリーヌ・フロという「Wカトリーヌ」コンビで描く、女子の人生の物語『ルージュの手紙』を、マルタン・プロヴォ監督のインタビューでご紹介します。
監督の作品では、前作『ヴィオレット ある作家の肖像』の主人公、めちゃめちゃはた迷惑で面白悲しく、それでも自分の道を歩むことしかできない作家ヴィオレット・デュラックが、個人的に大好き。今回の『ルージュの手紙』では、一人で生きる中年の助産婦さんと、かつて彼女を捨てた”母親代わり”の女性の、心の交流を描きますが、このふたりがこれまためちゃめちゃ「ガンコちゃん」。なんでそんなに不器用なのよ…と思うんだけど、ある年齢になると誰もがこう、自分のやり方でしか生きられなくなっちゃうんですよね……。
ということで、まずはこちらをどうぞ!
小さな産院で助産師として頼りにされるクレール。女手一つで育て上げた息子はすっかり家に寄り付かなくなり、孤独な日々を送る中、かつて父の恋人ベアトリスからの連絡を受けます。かつて母親代わりのように一緒に暮らし、父の金を使い果たした末に突然姿をくらましたベアトリスに複雑な愛憎を抱えるクレール。いまだにまったく変わらないその自分勝手さに苛立ちながらも、彼女が死の病にあること、看取る人が誰もいないことを知り戸惑います……。
『セラフィーヌの庭』『ヴィオレット ある作家の肖像』に続き、ヨレッとしたおばさんを主人公にするのはなぜですか。
マルタン・プロヴォ監督 そういう質問をされることが多いのですが、それは私が男性だからでしょうか。逆に聞きたいですね(笑)。
セラフィーヌもヴィオレットもそうですが、私はいつも日陰にいるような存在を主人公にしたくなってしまうんです。普段でも、たとえば空港でお掃除しているオバさんなんかを見ると、その人の家族はどんな人で、今まで何してたのか、これから何をするのか……などと考えるのが好きで。ただ今回は「ヨレッとしたオバさん」というより、助産婦を題材にしたいというのがありました。人間が生まれた時、自分の母親より先に会うのがおそらく助産婦さんです。すごく大事な職業なのに、あまり光が当たっていないなと。
「助産婦」に対して、何か個人的な思い入れが?
プロヴォ監督 私自身、産まれた時に、助産婦に命を救われました。彼女は自分の血を輸血してまで私を救ってくれたんだそうです。2年前に母親からその話を聞いた私は、当時の助産婦を探しましたが、残念ながら見つけることができなかった。それで私なりのやり方で、彼女に敬意を示す――つまりこの映画を作って彼女に捧げようと決めたんです。でも語りたいのは自分の話ではなく、「助産婦」という尊敬に値する職業についての物語でしたから、多くの助産婦に話を聞き、クレールという主人公――人のために懸命になり、何かを与えられる人物像を作り上げてゆきました。
主人公の助産婦、クレールについて教えてください。
プロヴォ監督 クレールは助産婦という仕事に、自信と誇りを持っている人です。朝から晩まで働き、出産間近の人がいれば夜中でも出ていくし、他の人にはできないことができる人だと思います。ただ自身の中に「原則」があって、それを崩せない頑固なところがあるんですね。でもそれは頭が悪いということではなく、ただ自分のやり方で生きてきたために、外の世界をあまり知らないんです。
これに対して突然現れたベアトリスは、自由奔放で快楽主義の、かなり自分勝手な人物ですよね。
プロヴォ監督 フランスで助産婦のことは「サージュ・ファム(Sage-femme)」と言いますが、「sage」とは賢い、堅実なという意味です。その言葉通りにお堅いクレールのもとに現れたベアトリスは、まったく対照的な人物で、自分のことしか考えていません。でもそういう自分のやり方で生きているうちに年を取り、気づけば周囲には誰もいない。クレールとベアトリスが似ている?そうかもしれません。でもあの二人がというより、もしかしたら誰もが、彼女たちに似ているのかもしれませんよ。
クレール役のカトリーヌ・フロさんは、実際の出産を介助したそうですね。
プロヴォ監督 そうです。映画の中に出てくる新生児が大きすぎたり健康的すぎたりすることってありますが、非常に違和感を感じますよね。私は本物の誕生を、生命の仕組みを撮影したかった。僕ら誰もが経験したことだし、水で薄めたような演技の場面にはしたくなかったんです。ですから出産シーンはすべてベルギーで撮影することになりました。フランスでは、月齢3か月以下の新生児を映画で撮影することは、法律的に禁じられているんです。根気のいる仕事になりましたよ。まずは妊娠したばかりの女性を探し、半年後の出産の撮影を依頼し同意を得たら、今度は撮影を許可してくれる産院を探して。カトリーヌ・フロには撮影前に訓練として出産に立ち会ってもらい、結果的には6件の分娩を撮影しました。彼女が最初の赤ん坊をこの世界に取り上げた時は、僕が涙があふれて止まりませんでしたね。
助産婦としてのクレールの矜持とはどんなものなのでしょうか。
プロヴォ監督 映画の中にも描きましたが、小さな人間味のある産院が閉鎖され、出産を工場のように請け負う大病院へと変わってゆくことは、実際によくあることです。妊婦が台の上に乗り、本来はその横にいるはずの助産師はスクリーンの向こう側で、何人もの出産を同時進行で見る、というような出産も現実です。技術の進歩という意味では悪くはないのかもしれませんが、出産はもう少し人間的な感動のあるものであってほしい。彼女はそういう場面に立ち会いたいと思っているのだと思います。
クレールが助産師として関わる誕生、その一方でベアトリスが直面する死。その対比はどんなことを意図していますか。
プロヴォ監督 フランスでは出産は助産師がやるもので、医者は立ち会いません。助産婦が、母親や父親とともに分かち合うのは、人間同士のつながりを感じられるとても大事な瞬間だと思います。実はフランスではその昔、死に際の世話をするのも助産婦の仕事だったと聞いています。死の瞬間の恐怖を和らげるためには、寄り添い、愛ある言葉をかけてくれる人が必要だった。生と死は巡っているものですし、どちらの瞬間も、人は丸裸で独りぼっちです。そでうした場面で、究極の思いやりを示すのが助産婦=クレールなんです。
この物語の核は、お互いのむなしさを埋めてゆく二人の女性の関係です。頑ななまでに日陰の世界で生きてきたクレールは、ベアトリスのおかげで光を取り戻す。自由奔放に生きてきたベアトリスは、クレールのおかげで自分の人生を顧みる。人は誰だって人間関係が必要で、一人きりでは生きていけない。映画を見る方に、そうした部分を感じてもらえたら嬉しいですね。
(C) CURIOSA FILMS-VERSUS PRODUCTION-France 3 CINEMA