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13回忌 2階級制覇の名チャンプ、ディエゴ・"チコ"・コラレス

林壮一ノンフィクション作家/ジェイ・ビー・シー(株)広報部所属
2007年5月7日、29歳で他界したディエゴ・”チコ”・コラレス(写真:ロイター/アフロ)

 IBF/WBOスーパーフェザー、WBO/WBCライトと4本のベルトを巻いたディエゴ・"チコ"・コラレスが亡くなったのは、2007年5月7日のことであった。享年29。

 ラスベガスのハイウェイでバイクを運転中に事故に遭遇したのだ。コラレスの血液からは、0.25パーセントのアルコールが検出された。ネバダ州の法律では、0.08パーセントまでなら運転しても良しとされているので、3倍以上を摂取していたことになる……。

 チコを最初にインタビューしたのは、ロイ・ジョーンズ・ジュニアがアントニオ・ターバーに2ラウンドでKOされた日の午後だった(2004年5月15日)。

 実は、天候不良のため飛行機の発着が遅れ、私は15分遅刻して待ち合わせ場所に辿り着いた。でも、笑顔で待っていてくれた。その時の様子が、まざまざと思い出される。

 フロイド・メイウェザー・ジュニアに敗れた日も、MGMのエレベーターで会った。顔を腫らしながら、ファンの求めるサインに応じていた。死のちょうど2年前にあたる2005年5月7日に、WBCライト級王者ホセ・ルイス・カスティーリョとの統一戦で、逆転KO勝ちした試合は心が震えた。

 今回は、生前のチコについて記した文章を再録(原文ママ)でお届けする。

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 純白のガウンに身を包んだ挑戦者が、笑顔で花道に現れた。数分後に命を懸けて闘う者とは思えない程リラックスしている。真っ白な歯を見せ、爽やかな表情でリングに向かう。

 右胸に彫られたパンサーのTATTOOが、チラリと目に入った。彼は今夜、この猛獣のように闘うことを、ひとつのテーマとしていた。

 8月7日、米国コネチカット州アンカスビルにセットされたWBOライト級タイトルマッチ。チャレンジャーである彼――ディエゴ・コラレスは、リングに上がるとキャンバスを確かめるように何度か飛び上がり、チャンピオンの登場を待った。

 数秒後にコラレスがガウンを脱ぐと、TATTOOだらけの躰が露になる。左上腕にナイフに絡みつく竜。右上腕には羽を広げた鳥獣。左胸には「Pain For LOVE(愛故の痛み)」の文字。そして背には、自らの子供たちの似顔絵、コラレスが崇拝するイエス・キリストらの神々が描かれていた。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 「ひとつひとつ、深い意味を持っているんだ。全部説明するとしたら、明日の朝まで掛かっちゃうよ」

 この試合が決まった頃、コラレスは少年のような表情をして、そう言った。

 「じゃぁ、次のタイトルマッチで最も意味のあるTATTOOを選んでくれないかな」と告げると、右胸を指差した。

 「僕はパンサーが好きなのさ。物凄く頭のいい動物なんだぜ。一度狙った獲物は逃さず、必ず仕留める。パンサーの動きには、緻密な計算と駆け引きがあるんだ。そんなボクサーになりたいと思って、入れたんだよ」

 コラレスは、1977年8月25日にサウスカロライナ州コロンビアで誕生した。生後間も無く、一家でカリフォルニア州サクラメントに移り住む。

 幼い頃、彼はストリートファイターとして名を売った。二人の弟を従え、街を闊歩(かっぽ)した。材木職人として家具を作る父と駐車場の係員だった母は、腕白な長男を持て余していた。

 「両親は、僕に手を焼いていた。ある時『元気が有り余っているようだから、ボクシングジムにでも通ってみるか?』って親父に言われてさ。ボクシングは物心付いた時には始めていたね。試合に出始めたのは、8~9歳だったよ」

 やがてコラレスは、才能を自覚し、ボクシングで身を立てることを夢見るようになる。アマチュア戦績は105勝12敗。全米では指折りの選手であった。

 「サクラメントには、NBAのキングスがあるでしょ。その影響でバスケットに熱中した時期もある。パイロットに憧れたこともあったな。でも、自分にとって最も可能性があるのはボクシングだと悟った」

 18歳でプロに転向し、無傷の29連勝を挙げて1999年10月にIBFジュニアライト級タイトルを獲得。この一戦は、マイク・タイソンの前座として組まれ、ペイ・パー・ビューで放映された。彼は一躍有名選手となる。

 「夢が叶ったぜ!! って、最高の気分だったよ。あの日まで、自分が本当にチャンピオンになれる男なのかどうか、確信が持てなかったからさ。それに連勝を続けながらも、プロの世界が厳しいってことを十二分に感じていたからね」

 パンサーに心を奪われたのは、王座を獲得する前だった。

 「テレビで野生動物の特集番組をやってたんだ。偶然目にしてさ、『へぇ、ボクサーと共通点がいっぱいあるんだなぁ』って思った。それから沢山の本を読んで、どれだけ賢い動物なのか分かった」

 なるほどコラレスという選手は、いつも冷静に試合を組み立てる。このクラスでは、ほかに例がない程の長身(181センチ)と、長いリーチを活かしたジャブでリングをコントロールする。チャンスを作ると、絶妙のタイミングで右ストレート、左フックのコンビネーションを浴びせ、KOの山を築いた。世界チャンプとなるまでにノックアウトできなかったのは、4試合しか無い。KO率8割6分のハードパンチャーであった。

 その後も4人の挑戦者を退け(うち3人にはKO勝ち)2001年の年明けに、他団体WBCの同級チャンピオンであるフロイド・メイウェザー・ジュニアと雌雄を決する。

 「あの試合は、準備段階で問題があった。なかなか体重が落ちなくて、私生活でも当時の妻と揉めちゃったりさ。メイウェザーは素晴らしい選手だったけど、彼に負けたというより自分に負けたな」

 コラレスは、第7ラウンドに3度、第10ラウンドに2度のダウンを喫して惨敗した。敗戦のショックはなかなか癒えず、数カ月後には妻への暴行罪で塀の中に入る。当然のことながら、離婚届けを突きつけられた。

 「子供だったんだよね。刑務所で猛省したよ。それで改めて、自分にはボクシングしか無いんだって感じた。あとね、ボクサーにとって最も大事なのは『精神面の充実』だということも認識した。ハードな世界でしょ。日々の生活のちょっとした乱れが、リングに出てしまうんだ。まずは、家族を大事にしなきゃって、子供の顔のTATTOOを背中に彫った。ジーザス(キリスト)も『力を貸して下さい』っていう願いを込めて、その姿を入れた。いつも背後から見守ってもらっている」

 インカ帝国の王や、インディアンの酋長のような絵もキリストの下に入っていたが、「話が長くなるから」と、語ってはくれなかった。

 初黒星から2年のブランクを経てカムバック。4連続KO勝ちを飾って復調の兆しを見せるも、昨年10月に7回負傷ドクターストップで2つ目の黒星がつく。倒し、倒されのシーソーゲームにファンが固唾を飲んでいるなかでの出来事だった。

 「ドクターの判断は正しくなかった。大した傷じゃなかったもの。試合が続いていれば、絶対に僕が勝っていたよ」

 5カ月後、リターンマッチでこの相手を下し、胸の痞(つかえ)を下ろすと共にWBOジュニアライト級タイトルも獲得する。2年10カ月ぶりに世界チャンピオンの座に就いた。

 コラレスが望めば、同タイトルの防衛戦を重ねることもできたのだが、彼は険しい道を選ぶ。“ブラジリアン・ボンバー”というニックネームを持ち、戦績35戦全勝31KOを誇る一階級上の怪物王者、アセリノ・フレイタスへの挑戦を決めたのだ。

 「勝算が無ければ、リングには上がらないよ。フレイタス対策? 敢えて言うなら、『パンサーのように』だね。鍵になるのは、やはり僕のジャブじゃないかな。まぁ、楽しみにしていてよ」

 およそ3カ月前、コラレスは不敵な笑みを浮かべながら話していた。

 花道に現れた折に見せた彼の微笑みは、「この一戦に向けて、やるべきことは全てやった」という証であった。リングでウォーミングアップを続けるコラレスの足取りは軽く、コンディションは上々であるように見えた。

 しかし、WBOジュニアライト級タイトル10度の防衛を誇り、今年の初頭に2階級制覇を成し遂げたチャンピオンの実力も折り紙付きである。15センチの身長差をものともせず、左右、前後と細かくステップを踏んでは、コラレスのお株を奪う。

 序盤から中盤にかけて、挑戦者は劣勢に立たされた。第6ラウンドまでの採点は、3人のジャッジが、1ポイント差、2ポイント差、6ポイント差で、それぞれフレイタス有利とつけていた。

 さらに翌7ランド、コラレスは再三、左アッパーを顎に、右ストレートを顔面に食らってしまう。この流れで試合が進めば、チャンピオンの防衛か、と誰もが感じていた。

 それでも、コラレスは粘り強く、ブラジリアン・ボンバーを追った。ショートパンチを空振りし後手に回りながらも、精神面の強さを見せた。

 第8ラウンド、1分32秒。チャンピオンのボディブローをブロックしたコラレスはカウンターの左フックをヒットする。この一発でフレイタスが、大きくのけぞった。

 ダメージを負った王者はリングを旋回し、クリンチで時間を稼ごうとするが、さらにコラレスの右を浴び、前のめりにキャンバスに沈む。コラレスは深追いをせずに、冷静に獲物を観察した。

 第9ラウンド開始のゴング直後から、捨て身で遮二無二パンチを出すチャンピオンを軽くいなす。そして、ある程度相手に自由に攻撃させながら、同ラウンドの終盤、またしてもカウンターの右フックでダウンを奪った。

 続く10回。チャンピオンの右ストレートに、左フックのカウンターがヒットすると、フレイタスは脅えたような顔をした。数秒間は立っていたが、またしても右フックで倒され、試合を放棄する。無敗のキャリアを誇ったブラジリアンだったが、パンサーに仕留められる兎のような最期であった。

 「フレイタスが前半強いことは分かっていたので、後半に勝負するプランを立てていた。とにかく諦めずにプレッシャーをかけ続けた」

 と、勝利者インタビューでコメントした。

 ベルトを腰に巻きつけながら、新チャンピオンは一瞬、右胸のTATTOOを撫でた。コラレスは、自身の言葉通り「パンサーのようなファイター」に近付いている。次のタイトルマッチでは、さらに進歩した姿が見られることだろう。

 TATTOO効果は絶大のようである。

『TATTOO BURST』2004年11月号 BOXER'S ROAD[ROUND 1]より

ノンフィクション作家/ジェイ・ビー・シー(株)広報部所属

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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