GⅠでのハナ差勝ち。目に見えないところにあった勝敗を分けた手綱捌きとは?
GⅠを勝つ事の難しさを痛感
調教師・池添学は1980年9月生まれの現在42歳。年子の兄が三冠騎手の謙一で、父は元騎手で調教師の兼雄というサラブレッド。
「騎手をしていた父の口取り写真に、自分と兄が一緒に写っているモノがあります」
高校、大学と馬術を続け、自主的な海外研修なども経た後、トレセン入り。2014年、調教師試験に合格すると、翌15年に開業。僅か2年目の16年には、朝日杯フューチュリティS(GⅠ)に送り込んだボンセルヴィーソが3着。自身2度目のGⅠ挑戦で、いきなりの好走を見せ、若きトレーナーがGⅠを勝つのは時間の問題かと思えた。
その後もカテドラルによるNHKマイルC3着(19年)、グランレイでの朝日杯フューチュリティS3着(19年)、サラキアによるエリザベス女王杯と有馬記念での2着(いずれも20年)など、大舞台での善戦こそあったが、先頭でゴールを切る馬は皆無だった。
「勝ち上がってきた馬同士が、皆、勝ちたいと願って走るのがGⅠですからね。分かってはいるけど、勝つのは難しいと痛感しました」
「化け物」かと思えた馬
21年のセレクトセール。懇意にしているオーナーのスリーエイチレーシングに落としてもらった1歳馬が、父ドゥラメンテ、母マルケッサ、母の父オルフェーヴルというドゥラエレーデだった。
その後の育成牧場での評判も良く、22年の夏前に入厩して、調教師自身が跨ると、1本目から素晴らしい動きを披露した。
「正直、化け物だと思うくらい凄く走る馬だと思いました」
それだけに1番人気を裏切り5着に敗れた新馬戦ではガックリと肩を落とした。
続いて出走した未勝利戦も敗れたが、直後に重賞を制す馬の2着。手応えは掴めた1戦となり、次走ではダート戦になるのを承知して、兄の謙一を乗せて臨むと好時計で快勝した。
「今後を考えると絶対に勝たせないといけないレースで、しかも兄を乗せるのを承知していただき、正直、モノ凄いプレッシャーがありました。そんな中、上手に乗ってくれて勝てたのでホッとしました」
ムーアからの助言
「続く1戦は黄菊賞か、京都2歳Sなどの選択肢があり迷ったけど、ムーアを手配出来たので、東スポ杯に挑みました」
こうして11月19日、東京競馬場で行われた東京スポーツ杯2歳S(GⅡ)に、ライアン・ムーアを乗せて出走した。すると、直線、一度は抜け出そうかという走りを披露。1000メートル通過58秒台の流れで、追い込み勢が上位を独占する結果となったため、最後は捉まったが、それでも勝ったガストリックとは僅か0秒2差。東京の1800メートルという厳しい舞台設定を考えても、次へと繋がる布石は打てた結果と思えた。
「完璧に乗ったわけではないのに4着に残りました。手先の重い走りをするのに、ムーアが早目に動いてキチッとやってくれので、今後のためにも良い内容だと感じました」
また、レース後、ムーアからは「クロス鼻革は効き過ぎるので、リングバミにした方が良い」と助言を受けた。
「実際にそうすると、調教助手も『この方が乗り易い』と言いました」
こうしていよいよGⅠのホープフルSに挑む事になった。朝日杯では同じオーナーのドルチェモアが優勝。その3日後の21日の事だった。
「息を作りたかった2週前追い切りが、ドゥラエレーデらしくない動きでした。そこで、ホープフルの丁度1週間前にあたる追い切りは、動かし過ぎず、折り合いに専念させなくてはいけないと考えました」
この追い切りに騎乗したのは、レースでも手綱を取るB・ムルザバエフ。池添は、新たなパートナーに告げた。
「『前に馬を置くけど、抜かないでください』とお願いしました」
ドイツのリーディングジョッキーは、この指示通りコントロールした。
「しっかり我慢した上、想定通りの時計で走ってくれました」
池添は続ける。
「この追い切りをうまく出来たのは大きかったです」
更に3日後の最終追い切りに跨った調教助手も、2週前とは変わってきた動きに目をむいたという。
「負けたと思った」ほどの接戦
こうして、12月28日の開催最終日に行われたホープフルS(GⅠ)の舞台に、ドゥラエレーデを送り込んだ。単勝は18頭立てで14番人気の90・6倍。前走で僅か0秒2差だったガストリックが4番人気、同タイムだったハーツコンチェルトが5番人気にそれぞれ支持されていた事を考慮すれば、過小評価されていたと言えるだろう。
「人気は気になりませんでした。成績的に抜けた馬がいないし、この馬の持っている力を出せれば、それなりの勝負が出来ると思っていました」
ゲートが開くとハナへ行くかというほどの好スタートを切ったが、内からトップナイフが行く姿勢を見せると、譲って2番手で追走した。
「極端に内枠なら行かざるをえないし、大外だと前へ行くまでに負担がかかります。それを考えると、枠(11番)が良かったと思います。1コーナーを回るあたりでうまくハミを抜いてくれたし、前半1分1秒5というラップをみた時『良いぞ!!』と思いました。でも『中山の急坂で止まってしまうか?』という不安もありました」
絶好の手応えで4コーナーを回り、直線に向いた。しかし、そこから横山典弘の巧みな操縦で、トップナイフが粘りに粘る。抜けそうで抜けない状態が続き、ゴールまでの距離だけが無くなっていった。
「調教師席のテレビで見ていたのですが、残り100メートルくらいからは居ても立っても居られず、思わず外へ出て生で観戦しました」
そんな池添の目に、2頭が並んでゴールする場面が映った。
「負けたように見えたので『2着なら良く頑張ってくれた』と思いました」
そんな気持ちで下馬所へ向かおうと思ったが、そこでもう1度だけ、VTRを確認する事にした。
「カテドラルの京王杯オータムH(21年)も負けたと思ったけど、後からVTRを見たら差していました。同じ中山だし、そういう事もあるかと思い、確認しました」
すると、僅かだが、鼻先が前に出ているのが分かった。
「分かった瞬間は喜びしかありませんでした。日頃からお世話になっているオーナーの馬で、僕自身、初めてのGⅠ制覇が出来て、凄く嬉しく感じました」
勝敗を分けた手綱捌きとは?
レース後には200件を超えるLINEやメールが入っていた。その中には父の兼雄や、怪我さえなければここでも手綱を取っている予定だった兄の謙一からのお祝いもあった。
それらを見て、喜びを噛みしめた池添学は、改めて1週間前の追い切りを思い出した。
「あの追い切りでうまく乗ってくれたからハナ差勝てたと思いました。あそこで失敗していたら、逆にハナ負けか、それどころか全く勝負にならずに負けていたかもしれません」
勝因も敗因も目に見えるところだけに、あるわけではない。むしろ目視できるのは氷山の一角なのだ。自身34回目のGⅠ挑戦で、初めて栄冠を掌中に収めた池添は改めて言う。
「逆に言うと、それくらい何もかもがうまく嚙み合わないと勝てない。それがGⅠだと、つくづく思いました」
年が明け3歳となったドゥラエレーデ。クラシック戦線での活躍に期待しよう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)