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【深掘り「麒麟がくる」】松永久秀のわなは創作 平蜘蛛の茶釜と史上初の爆死、真相は

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
戦国時代において、茶の名器は一国に値したという。平蜘蛛も名器だった。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第40回「松永久秀の平蜘蛛(ひらぐも)」は、久秀の裏切り、久秀死後の平蜘蛛の行方などが注目される。平蜘蛛が明智光秀の手に渡ったのは、久秀のわなだったのか。

■第40回「松永久秀の平蜘蛛(ひらぐも)」を振り返って

 第40回「松永久秀の平蜘蛛(ひらぐも)」の内容を簡単に振り返っておこう。

織田信長(役・染谷将太さん)が大坂本願寺と激闘を繰り広げるなか、突如として松永久秀(役・吉田鋼太郎さん)が戦場から離脱した。明智光秀(役・長谷川博己さん)は、伊呂波太夫(役・尾野真千子さん)を通じて久秀と会い、離反した理由を問い質す。久秀の言い分は、信長が大和守護の座を筒井順慶(役・駿河太郎さん)に与えたので、本願寺に与するというものだった。その際、久秀は天下一の名物という「平蜘蛛の茶釜」を見せ、いったん伊呂波大夫に預け戦に負けたら光秀に渡すと語る。結局、久秀は織田軍に敗れ、非業の死を遂げた。信長から平蜘蛛の所在を問われ、知らないふりをした光秀。平蜘蛛を手にし「これは松永久秀のわなじゃ」と狂気の笑みを浮かべた。

 ドラマでの描写と異なり、久秀は平蜘蛛の茶釜とともに「日本史上初の爆死」をしたという説が広く知られている。その真相について深掘りすることにしよう。

■織田信長に背いた松永久秀

 そもそも松永久秀は三好長慶の家臣で、長慶の死後は織田信長に歯向かった。久秀は果敢にもたびたび信長に抵抗するが、その度に苦境に立たされた。しかし、信長は降参する久秀を攻め滅ぼすことなく、許した。

 風向きが変わるのは、天正4年(1576)5月のことである。大和守護だった原田直政は筒井順慶ら大和衆を率い、大坂本願寺を攻撃した。ところが、無念にも直政は三津寺砦攻めで戦死した。

 戦いの直後、戦死した直政の代わりに大和守護になったのは、順慶だった。その際、伝達するために使者として派遣されたのは、明智光秀である。これにより久秀には、大和守護になれなかったという不満が残った。

 さらに順慶は、久秀の居城・多聞山城(奈良市)を破却し、その勢力を削ごうとした。こうした一連の出来事によって、久秀は信長に反旗を翻すことを決意したのだろう。

■久秀の謀反

 天正5年(1577)8月、大坂本願寺を攻めていた久秀は、突如として天王寺砦を焼き払い、子の久通とともに信貴山城(奈良県平群町)に立て籠もった。久秀が頼りにしたのは、本願寺の顕如と上洛を準備していた上杉謙信だった。

 久秀の謀反に驚いた信長は、松井有閑を派遣して理由を尋ねた。その際、信長は許すこともありうるとまで言ったが、久秀の決心は固く、有閑に会おうともしなかった。

 一説によると、信長は久秀に対し、名器「平蜘蛛の茶釜」を差し出せば助命すると伝えたという。しかし、久秀は「平蜘蛛の釜とわれらの首と2つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ。粉々に打ち壊すことにする」と回答した。それを聞いた信長は、人質であった久秀の孫2人を京都六条河原で処刑した。

 その後、反旗を翻した久秀に対し、織田信長は嫡男・信忠を総大将とし、明智光秀、筒井順慶を主力とした軍勢を派遣した。まず、落城に追い込まれたのは、信貴山城の支城・片岡城だった。

 同年10月、織田軍は信貴山城を包囲し、久秀は窮地に追い込まれた。織田軍と久秀軍との兵力差は圧倒的で、久秀に勝ち目はなかった。結果、信貴山城は落城し、久秀・久通父子は自害したのである。その遺骸は、順慶によって手厚く葬られたという。

■久秀の最期

 久秀の最期については、諸説ある。『兼見卿記』によると、久秀・久通父子は切腹し、信貴山城に放火したと記されている。その後、首は信長のいる安土城(滋賀県近江八幡市)に送られた。この説がもっとも信用できる。ただし、平蜘蛛の行方については書いていない。

 太田牛一の『大かうさまくんきのうち』には、久秀・久通父子の首は信貴山城の天守に火を掛け、平蜘蛛を打ち砕くと、そのまま焼死したとある。久秀は、自らの手で平蜘蛛を破壊したという説である。

 一方、質の劣る二次史料『川角太閤記』は、久秀の首と平蜘蛛が鉄砲の火薬で木っ端みじんに砕かれたと記しているが、久秀が平蜘蛛とともに自爆したとは書いていない。のちにこの記述は、後世の史家によって「久秀が平蜘蛛とともに自爆した」と解釈された。

 以後、この解釈が独り歩きし、俗説として定着したと考えられている。当時、武将の最期は切腹するのが通例で、火薬で自爆するなどありえなかった。ゆえに「日本史上初の爆死」とも称された。

 すでに触れたとおり、たしかな史料には久秀・久通父子が安土城に送られたとあるので、久秀が平蜘蛛とともに爆死したというのは誤りであるといわざるを得ない。

 なお、ドラマのなかでは、久秀が伊呂波太夫に平蜘蛛を託し、あとで光秀に届けるよう依頼していた。光秀は信長から平蜘蛛の所在を聞かれ、知らないと嘘をついた。これは、光秀を陥れる久秀のわなだったという。この話はドラマ独自の単なる創作であり、史実とは認めがたいものである。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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