樋口尚文の千夜千本 第175夜 『24フレームの映画学 映像表現を解体する』(北村匡平 著)
自在に軽快に映画という「システム」を凝視する
『スター女優の文化社会学 戦後日本が欲望した聖女と魔女』『美と破壊の女優 京マチ子』といった野心的な著作を続々上梓している気鋭の映画研究者、北村匡平氏の新刊『24フレームの映画学 映像表現を解体する』(晃洋書房)は、実に示唆に満ちている。その意図は序説にいかにも明晰に提示されているのだが、ごくごくひらたく言えば映画を観ることが「一回性」から解放され、さまざまな機会や機器をもって出合いを反復できる現在、より具体的に表現そのものに目を凝らして、複雑にして猥雑な創造作業の総体のなかから「作者」の意図というものを焙り出そう、ということだろう。もちろん北村氏がそんな論考を世に問おうという背景には、こうして世の中は便利になったのに研究者、評者たちは案外映画の細部を「計測的」なくらい精度をあげて見つめることを怠っているではないか、という思いがある。
そして北村氏は、エディソン、リュミエール兄弟に始まる「技術」のシステムとしての映画の数々を、天眼鏡的視野をもって再検証してゆくのだが、実はこういった映画の見方は意識的であれ無意識的であれ「作者」の側に立ったことのある人間は必ず通過しなくてはならない。ちょっとした自主映画を演出してもそれは体感できるし、商業的に公開されるサイズの監督であれば、よりさまざまな技術的側面がもたらす複合的効果にまで神経を働かせなくてはならない。だが、面白いもので映画を「観客」視線で観ているうちは、いかに年季の入ったシネフィルの評論家でも、どこか実作者にはピンと来ない評しか書けない。その点、本書の北村氏はご本人の言うところの「解剖学」的な切り口で映画を観なおしてゆくのだが、これまさに「作り手」目線でリアルに「技術作品」を読み解く、ということだろう。したがって本書は、映画を観ることを学ぶ人だけでなく、映画を作ることを学ぼうとする人にも読まれるべき書物である。大学の研究者によるこのような「間合い」の著作は、意外なほど見当たらない。
また本書にはさらに特筆すべき点があって、過去にももちろんこうした「カット分析」を試みる研究者はいたわけだが、えてして屍をまさぐるような退屈さに占められていた。そういう映画研究者のダメなところは、せっかく精密なことを誠実に書こうとしているのに、遍く魅力的に伝えようというサービス精神がまるでないところである。せっかく映画的な知を精巧に研ぎ澄ませて、いいことを書いても誰にも伝わらず自己満足に終わっては意味がない。その点、北村氏はこの「解剖学」的パースペクティブをもって溝口健二、成瀬巳喜男、清水宏からヒッチコック、スコセッシ、はては岩井俊二、細田守まで、新作・旧作はもとより実写・アニメの閾を軽々と踏み越えて自在に愉しげに作品を凝視してまわる。そのことが、この論考の数々を活気あるものにしている。
この節操なく機嫌よきサンプリングの嵐は、なんと私よりふたまわりも若い1982生まれの北村氏の世代の美徳もしくは武器であろう。私は「キネマ旬報」誌からくだんの「京マチ子」論の著作の書評を頼まれるまで、てっきり研究対象的に自分と同じか上の世代の研究者の著作かと勘違いしていて不明を恥ずるばかりだったのだが、逆に言えば上の世代とて手をつけなかった「京マチ子」に遅れてきた自分の世代が向き合うのは「蛮勇」を要することだ。だが、遅れに遅れた北村氏にとって「京マチ子」はすでに「歴史」であるから、それを研究対象とすることへの畏れは「やんちゃ」によって軽々と乗り越えられるのである。
北村氏本人がこうした「映画の計測」は人文学的に「つまらない」と思われがちだと記していてわが意を得たりなのだが、しからばということで北村氏が実践してみせる世代的な「自然児」ぶりを逆手にとった自在なサンプリングの「やんちゃ」ぶりが、まさにその「つまらなさ」を回避する大いなる魅力になっているのだ。これはここに挙げられた相米慎二で言えば『翔んだカップル』や『セーラー服と機関銃』の頃には生まれてさえいなかった著者ゆえの(逆)特権的な「やんちゃ」さなのだ。
それに付け加えて言うならば、このサンプリングの対象のなかに「篠田正浩」が幾度も登場したことが印象的だった。私もたまさか最近そこに注目して活動していたのだが、「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」として括られた作家たちのなかで、同時代を過ぎて極端に語られなくなったのが篠田正浩だった。その大きな要因は、この映画の「解剖学」的な批評を旧套の文学的な映画論壇につきつけて観客を大いに覚醒させた蓮實重彦をはじめとする映画批評のストリームにあって、篠田が否定気味に黙殺されてきたせいもあるだろう。私はもちろんこうした映画をめぐる思潮に学ぶものではあれど、論者の誰もがそこになびくという窮屈さもいかがなものかと思うので、そういう意味ではそこに「監督小津安二郎」が上梓された前年にようやく生まれた著者ならではの軽快さを感じて、また好ましさが増すのであった。