頼家はタマをもぎ取られて殺されたのか 『鎌倉殿の13人』の「鎌倉殿」のあまりに陰惨な暗殺始末
修善寺といえば「源頼家の殺されたところ」
修善寺と聞くと、私はいつでもつい「源頼家の殺されたところ」とおもってしまう。
さほどにその死の陰惨さが印象深い。
小林秀雄の『実朝』を若いころに読んだからだろう。
新潮文庫『モオツァルト・無常という事』に収録されたこの一篇は「歌人・実朝」について小林秀雄が語ったものであるが、そこで当時の政治状況にも触れる。
「頼朝という巨木が倒れて後は(…)鎌倉幕府は陰謀と暗殺との本部の様な観を呈する」
と評し、頼家の暗殺について引用する。
原典は「愚管抄」である。
「サテ次ノ年ハ、元久元年七月十八日ニ、修善寺ニテ又頼家入道ヲバサシコロシテケリ、トミニエトリツメザリケレバ、頸ニヲヲツケフグリヲ取ナドシテコロシテケリト聞ヘキ」(「愚管抄」六)
カタカナで書かれていて読みにくいこともあり、一読、すべてのシーンが浮かんだわけではないが、何度か読んでいるうちに、その陰惨さが心に刺さってきた。
いまだに忘れられない一文である。
「首に緒をつけ、陰嚢を取りなどして、殺してけり」
ひらがなに直し、一部、漢字を当てるなどして(あきらかな当て字で申し訳ないが)、いまいちど書いてみる。
「さて、次の年は、元久元年七月十八日に、修善寺にてまた、頼家入道をば指し殺してけり。とみに、え取り詰めざりければ、首に緒をつけ、陰嚢を取りなどして、殺してけりと聞こえき」
こうなる。
「え取り詰めざりければ」、というのはつまり「うまく殺せなかったので」ということで、首に緒(紐)をつけ、陰嚢(ふぐり)を取りなどして、殺した、と伝わる、そう書かれているわけである。
無茶苦茶な殺し方だ。
初読以来、衝撃を受けて、いまもってこのシーンが脳裏から離れない。
『鎌倉殿の13人』でそこに至るシーンが描かれるわけで、三谷幸喜がこの「頸ニ緒ヲ付ケ陰嚢ヲ取ナドシテ殺シテケリ」の文意をどう捉えているかによって描写が変わってくる。
(この部分、放送前の記述)
京都まで伝わったあまりに悲惨な「源頼家の最期」
「愚管抄」は、同時代の京都の僧である慈円の書いた書物である。
彼は藤原氏の中心・摂関家の出なので、京都政権の中心に近いところにいた。
鎌倉政権の動向にもいつも接しており、おそらく京都政権に届いた一報を聞いて書き記したものであろう。
あくまで遠く離れた場所での伝聞でしかない。ただ、あまりにも凄惨なシーンを聞いたままに書いているようで、何かしらの真実は含まれているはずである。
この文を紹介した小林秀雄は「無造作な文が、作者慈円の悲しみと怒りとをつつみ、生きて動いている」と評している。
いにしえの人の文でも現代文のように評するのが小林秀雄の特質であり、この人の文はいつも詩のようにしか見えない。
それにしても。
あまりにも悲惨な「源頼家の最期」である。
悽愴、という言葉しか浮かばない。
「フグリを取る」とはどういうことなのか
小林秀雄の引用では「頼家入道ヲバサシコロシテケリ」となっているが、私の手元にある岩波文庫(昭和24年版三刷)では「指コロシテケリ」と書かれており、つまり「刺殺」ではないことが示されている。
刃物で殺していない。
もっとも衝撃を受けたのは、「フグリを取などして殺してけり」という部分である。
ちょっと聞かない殺され方だ。
フグリは、昔ながらの言葉で少し俗っぽい口語でもあるから、そのまま俗に、あくまでわかりやすくするなら「キンタマ」と読み換えていいだろう。
頼家はつまり「キンタマを取るなどして」殺されたと書かれている。
最初読んだときは、読んでそのまま、キンタマをもぎ取って殺した、という意味にとらえて衝撃を受けたのだ。
そうとらえることができる文である。
なぜ頼家は力まかせに殺されたのか
ただ、「陰嚢部分を取り押さえて」殺した、とも読むこともできる。
つまりキンタマを足で踏みつけるなどして動けなくして、紐で縊り殺した、というようなことだ。
頼家の抵抗がすさまじかったのであろう。
暴れ回る若者の姿が目に浮かんで心が痛む。
しかし、殺し方がプロの手口ではない。
力まかせに殺している。
結果、楽な死なせ方をしていない。
ひょっとしたら「まったく人の殺し方を知らない」ふつうの男たちが下手人だったのかもしれない、とおもってしまう。
力だけは強い男たちが数人、頼まれて、無理矢理に殺しにいったのなら、こういう無様なことになるかもしれない。
一人が力まかせにキンタマを丸づかみにして押さえつけて、もう一人が(もしくは二、三人が)頸に紐を巻いて力まかせに絞めているばかり。
そういう無頼な男たちによる犯行だったのかもしれない
武人の棟梁だった人にむかって、刀で殺さない。
それが、ことの陰惨さが際立たせているようにおもう。
なぜ楽な死なせ方をしなかったのか
鎌倉政権の陰惨な暗殺の歴史は頼朝生前からあったのだが、頼朝死後が際立っており、梶原景時、比企能員らは一族殲滅の目にあっている。
殺人側も返り血で血まみれになっている図しか浮かばない一族惨殺の繰り返しであり、血なまぐささしか感じられない。
その流れでは、先の将軍であろうと、キンタマをもぎり取られて殺された、と聞いても、そういうこともあるかもしれないと感じてしまう。
楽な死なせ方をしなかったのは、何らかの意図があったのか、たまたまそうなったのか、わからない。
鎌倉政権内部については、記録が少ないからだ。
記録好きの少ない土地にあった鎌倉政権の宿命
樹立まもない新政権だったということもあるが、周辺に「記録」に関心を持った人物がほとんどいなかったからというのも大きい。
鎌倉政権の内部事情は「記録の街」であった京都でいろんな人が噂を書きつけたものが残っているばかりである。
鎌倉政権側の正式な歴史書は『吾妻鏡』である。
北条得宗家、つまり義時(小栗旬)直系の子孫たちが政権中枢にありつづけ、その政権の正統性を主張する歴史書である。
本来、皇族ないしは藤原氏らの「日本国創立メンバーの子孫たち」(天智・天武帝およびその側近の子孫たち)が国の首班を務めるのが慣わしであったのが、平氏につながっているとはいえ「北条氏」というよくわからない一族がトップにあることに対して、懸命の説明が必要だったのだろう、ということである。
だから北条得宗家に都合の悪いことは一切書かれていない。
『吾妻鏡』の頼家の死に関するあっさりした記述
源頼家の暗殺について、北条氏による鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』の表記は単簡である。
七月十九日の己卯の日の条項
「酉の刻、伊豆国の飛脚、参著す。昨日(十八日)、左金吾禅閤(源頼家)、年廿三、当国(伊豆国)修善寺において薨じたまうの由」
(新人物往来社版からの引用、一部注釈追加)
伝聞である。
飛脚が、ということは、つまり「頼家公が修善寺で亡くなられたとの知らせがあった」としか書かれていないわけだ。
なんか知らんけど、死なはったらしい、と言わぬばかりの文章は、だから逆に、頼家弑殺の張本人が北条家であることを強く暗示している。
時政、政子、義時らが中心にいたのだろう。でも誰がどう動いたのか、詳細はわからない。
源頼家については、彼が邪魔だったので歴史から抹殺し、そのことはただ「彼は死んだらしい」としか記録していない、というのが北条家の実情である。
誰がどう動いたのかを割り振るのは脚本家の胸先三寸にある。
『鎌倉殿の13人』の鎌倉殿は源頼家
『鎌倉殿の13人』というタイトルは、13人の合議制を指しているのだから、この「鎌倉殿」は源頼家(金子大地)のことである。
その「鎌倉殿」は北条家によって無惨にも抹殺された。
『吾妻鏡』は頼家が愚かな暴君であったかのような描写がいくつかある(土地分配でいきなり真ん中にまっすぐ線を引いた、などのエピソード)が、それはつまり北条得宗家の正当性を主張しているにすぎない。
彼を排除したほうが世の中が安定した、という後付けの説明である。
ドラマ『鎌倉殿の13人』でも頼家は、わがままで言うことを曲げぬ暴君じみて描かれ、「吾妻鏡」路線を踏襲した描写であった。
義時の物語なのでしかたがないのだろう。
ただ、そこまでの暗君ではなかったのではないか、というのは幾人かの歴史家も指摘しており、源頼家を「排除されてしかるべきボンボン将軍」とだけ見做すのは、かなり気の毒である。それは北条得宗家の恣意的誘導でしかないからだ。
源頼家は、危篤状態から生き返ったために、かえって凄惨な最期を迎えてしまった。
そして彼は経験の浅い若者でしかなく、彼のことをリアルに想像すると、ただ瞑目すべき存在のようにおもうばかりである。