武豊が予見していたディープインパクト産駒、世界での成功とデビュー直後の逸話
日本最強馬は種牡馬として欧州でも成功
「ディープインパクトが死んだらしいね?」
丁度1年前、イギリスのグッドウッド競馬場でそう声をかけてきたのはフランキー・デットーリだった。あれから1年。ディープインパクトの命日である7月30日に、彼の忘れ形見の1頭でありアイルランドのドナカ・オブライエンに管理されるファンシーブルーがそのグッドウッド競馬場で行われたナッソーS(G1)に出走。同レース連覇を目指したディアドラらを破り、見事に優勝を飾ってみせた。
このように日本だけでなく今や世界中にその名と血を広げる日本の最強馬。彼の産駒で、世界に出て実績を残した馬としては一昨年、イギリスの2000ギニーを勝ったサクソンウォリアーが有名だ。日本の皐月賞にあたる三冠レースの第1弾を制した彼は、管理するエイダン・オブライエンの采配で、その次走をダービーとした。結果はマサーの4着に敗れるのだが、1番人気に支持された事からも当時の注目度の高さが分かる。その後は残念ながら勝利する事はなかったが、同年のエクリプスS(G1)、同アイリッシュチャンピオンS(G1)でいずれもロアリングライオンのクビ差2着に善戦。ロアリングライオンはその年のヨーロッパの年度代表馬に選定されるほどの馬だったのだから、ほんの少し運がなかったという事だろう。
武豊と見たフランスでのディープインパクト産駒
ご存知のように現役時代のディープインパクトには武豊が騎乗していた。以前、この日本のナンバー1ジョッキーと一緒に、海外でディープインパクトの子供の走りを見た事がある。フランス、クレールフォンテーヌ競馬場。ジャックルマロワ賞(G1)が行われる舞台としても有名なドーヴィル競馬場から車で10分もかからないロケーションにあるのが場内を無数の花で飾られたこの競馬場だ。2011年の8月、ここで走ったディープインパクトの娘は名をアクアマリーンといった。
M・デルザングル厩舎に所属する彼女は、当時まだ3歳。約1ケ月前にデビュー戦を勝った際は、日本でも話題になった。これが2戦目で、武豊が見守る中、C・スミヨンを背に先頭でゴールを駆け抜けた。2戦2勝となったディープインパクトの牝馬を見て、武豊は言った。
「さすがディープ。あの血を継いでくれれば世界中で充分に通用する産駒が出て来ると思います」
ディープインパクトと言えば軽快な走りがセールスポイントで、日本での産駒もそういうイメージが強かった事から「ヨーロッパの重めの芝でも大丈夫ですかね?」と聞くと、天才ジョッキーは小首を傾げながら答えた。
「僕らがオリンピックに出るようなレベルの選手を相手にしたら、たとえ競技場でなくてコンクリートの上や砂浜でもかなわないですよね。そういう事だと思います。圧倒的なレベルの差があれば、どこへ行っても走れる。ディープはそんな可能性を感じさせてくれる馬だと思いますよ」
この言葉は、すぐ後に証明される。今回のファンシーブルーや冒頭のデットーリの話を持ち出すまでもなく、現在では世界中のホースマンがディープインパクトの成功を認知している。
最強馬、デビュー直後のエピソード
そんなディープインパクトだが、武豊が唯一心残りに思っているのが、やはり凱旋門賞(G1)への挑戦だ。当時を述懐する彼は「間違いなく勝てる実力があっただけに悔しい」と今でもその表情を歪めて語る。強い馬の順番でゴールイン出来るとは限らないのが競馬なので、当時の勝ち負けについて今さら改めて書く気はないが、最後にかの地で伺ったエピソードだけ、記させていただこう。06年に遠征したそのフランスで、しみじみと「凱旋門賞に挑戦出来るまでになって良かった」と武豊は言った。そして、最強馬のデビュー当初の逸話を教えてくれた。
「ディープはデビュー前から『勝ったら連闘しようか?』という話があったそうです」
デビュー戦は04年12月。クラシックに間に合わそうと思えば時間的な余裕はそれほどない。「大きいところを狙える馬だからこそ……」と陣営が連闘策を考えるのも不思議ではなかった。しかし、武豊はかぶりを振ったと言う。
「大仕事を出来る馬だからこそ、大事に行きましょう」
実際、新馬戦で圧勝すると、陣営も「そうしよう」と首肯して答えたそうだ。
その後のディープインパクトの活躍は皆さんご存知の通り。三冠馬となり、七冠馬になると、種牡馬としても世界中で産駒が活躍。他界して1年が過ぎた現在も、彼は世界中の競馬界に大きく影響を与え続けているのである。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)