逆張りと敗北主義は強者の娯楽なのか
「逆張り的なトランプ支持」への憂慮
アメリカのトランプ大統領就任を受け、日本の一部の知識人たちはダメな日本をどうにかするためのある種のショック療法としての「トランプ支持」言説を唱えている。しかし、逆張りは容易にその影響の軽視へとつながる。とくにゼノフォビア(外国人嫌悪)、ミソジニー(女性嫌悪)に対する社会制度的、規範意識的な防波堤が相対的に低い日本社会において、一番憂慮しなくてはならないのは、トランプ大統領の政策遂行により「やり方レベル」でハードルが下がることだと筆者は思っている。
この間、もっとも衝撃だったのは、やはりシリア、イラン、イラク、リビアなど7か国からの入国を禁止した大統領令だろう(なお現在は司法の判断により暫定的に無効となっている)。これについても、「日本の方が先に行っている」という言説が少なくない。
筆者自身、朝鮮籍で特別永住資格を持つ在日コリアンとして、近年、立場の不安を感じてはいるが、今回、比較すべきはそこではないのではないかと考えている。日本の外国人政策や入管行政の惨状に目を向けることはもちろん重要だが、今後のより深刻な直接的影響こそを恐れている。そのような意味において、入国禁止令に左右された人々の声は他人事ではなかった。
「日本は多文化共生に耐えられない」
こうしたなか、逆張りとはまた少し違う意味で憂慮すべき主張を目にした。中日新聞2月11日付「この国のかたち 3人の論者に聞く」というインタビュー記事における社会学者、上野千鶴子氏の「平等に貧しくなろう」である。ひとことで言うと、日本の人口構造の変化は不可逆的だが、移民政策も経済成長も「無理」だから、人口減少と衰退を引き受けるべきだ、という主旨だ。少子化や経済問題については専門家に譲りたいが、筆者の立場として看過できないのは移民政策について述べた以下の部分だ。
社会的不公正と抑圧と治安悪化は必然?
まず、「移民を入れる」と「社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ」ことになるのは必然なのか。何の前提もなくこのような発言を垂れ流すことに、それこそトランプ大統領にでも何か吹き込まれたのではないかと目を疑った。
次に、「労働開国にかじを切ろうとしたさなかに世界的な排外主義の波にぶつかった」という現状認識は正しいのか。すでに1990年の入管法改正により、日本は日系人と技能実習生、さらには留学生というかたちで事実上の外国人労働者を受け入れている。また排外主義はここ数年の間に、欧米から黒船に乗ってやってきたわけではない。ひどく狭く見積もっても2010年代、日本社会の主要イシューのひとつだった(「ヘイトスピーチ」が新語・流行語大賞に選ばれたのは2013年だ)。それは「移民政策」を取らずとも、旧植民地出身者として戦後この日本社会にずっと存在している住民らを主な対象にして、起きていることだ。
だからこそさらに、「単一民族神話」という言葉でその虚構性を批判していた側であったはずの上野氏自身がそれを前提にしてしまっていいのか。「日本人は多文化共生に耐えられないでしょう」などという、先の予測の問題でない。すでにここには旧植民地出身者、インドシナ難民を受け入れた80年代以降に急増したニューカマー外国人といった「移民」が存在する多文化社会だ。上野氏の議論からは、その存在がすっぽり抜け落ちている。
すでに存在している「移民」はどこへ?
上野氏の主張を真に受ければ、すでに存在している「移民」もまた、「社会的不公正と抑圧と治安悪化」の要因ということになるのだろうか。多少大げさに聞こえるかもしれないが、これは、少なくともそのような意味での「移民」である筆者にとって「排外主義」的な効果を持つ発言だった。日本でリベラルな立場を自認する高名なフェミニストであり、フェミニズムに裏打ちされたその研究と実践から筆者も多くのことを学んできた上野氏の発言だと思うと、ひどく打ちのめされた。
筆者がトランプ後のアメリカに見ているのは、マイノリティは、とくに日本において外国籍住民は、その基盤がいかに脆弱なものであっても、今後さらにリベラルなマジョリティに依拠するしかなくなってしまうのではないか、という恐怖だ。にもかかわらず、リベラル側だと思っていた日本人知識人のこの敗北宣言だ。
つくづく、逆張りと敗北主義は強者の思想、強者の娯楽だと思う。