【その後の鎌倉殿の13人】北条義時が死の間際に見せた意外な行動
貞応3年(1224)6月13日、雨が降る日に、北条義時は病でこの世を去りました。享年62。鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』によると、義時は日頃から「脚気」(かっけ。ビタミンB1が欠乏して起きる病気)を患っていたとのこと。
その上、最近では「霍乱」(かくらん。暑気あたりによって起きる諸病)を発症。義時の病状を悪化させていました。義時は亡くなる前日の朝から亡くなるまで「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と念仏を唱えていたそうです。
伊豆国の中小豪族・北条時政の子として長寛元年(1163)に生まれ、姉の北条政子が源頼朝と結ばれたことにより、人生が激変した義時。頼朝の信任を得て「他日、必ず子孫の補佐たらん」とも絶賛された義時。
頼朝亡き後は、その子・源頼家を支える有力御家人13人の1人となりました。しかし、有力御家人同士は激しく相争い、梶原景時・比企能員・畠山重忠・和田義盛らは没落していったのです。
鎌倉殿であってもその生命を保つのは容易ではありませんでした。比企氏が後ろ盾の源頼家は比企氏滅亡に伴い、伊豆修禅寺に幽閉、その後、北条氏の手の者により殺害されました(1204年)。その後を継いだ三代将軍・源実朝も、頼家の子・公暁によって、鶴岡八幡宮で討たれます(1219年)。
義時の周りにいた多くの者が非業の死を遂げていきました。それを目の当たりにしてきた義時。「南無阿弥陀仏」と唱える臨終間際の義時の胸には、どのような想いが去来していたのでしょうか。