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【富田林市】楠木正成の身代わりになった矢疵観音の場所には、万葉集の歌人、柿本人麻呂の伝説もあった。

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野の大矢船には中世の武将・楠木正成を敵から守った観音様が鎮座しています。

しかし、同じようなエピソードが富田林にもありました。それは矢疵観音(やしかんのん)。富田林の錦織南にあることがわかりましたので、さっそく行ってみることにしました。

場所をおさらいしましょう。近鉄滝谷不動駅から見て南西の方角です。駅前から続く東高野街道を経由し、途中から西に向かうとあります。錦織小学校のすぐ西側ですね。

東高野街道は古くから存在する街道なので街並みが古いですが、街道から離れたところもこのような歴史を感じる建物がありました。

ちょうど左手に錦織小学校を見ながら坂を上ると、矢疵観音の入口が見えてきます。

ここは結構急な坂で、石川の河岸段丘(かがんだんきゅう:川の流れに沿って出来た階段状の地形)を登ったところにあり、地元では聖音寺山と呼んでいるそうです。

こちらが入り口です。矢疵観音は光明山聖音寺という仏教寺院で創建年代などは不明、一説には古代の万葉歌人・柿本人麻呂の創建ともいわれているようです。

明治時代に住職がいなくなり廃寺同然になったそうですが、再興され現在は無本寺(むほんじ:仏教宗派の本山との関係がない)とのこと。住職は不在ですが地元のひとたちが管理しているそうです。

楠木正成にまつわる伝説は次のようなものです。後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の軍を立ち上げると、正成はそれに呼応し、下赤坂城で籠城します。

しかし急なことだったので体制が整わず、わざと負けていったん落城させ、金剛山へ逃亡・潜伏します。しかし、その途中で幕府軍に見つかり、弓で射掛けられます。

そのうえ矢が正成の籠手(こて:手の甲を守る武具)に当たってしまいました。ところが正成はまったく痛みがなく、そのまま逃げ切りました。夜になって正成は眠りますが、その夢枕に観音菩薩が現れ次のように告げます。

我は聖音寺の観音なり。汝の身代わりに矢を受けた。疑わしくば寺に来て見よ

翌日、正成はそれが正夢なのかと、聖音寺へ確認に向かいます。すると寺にあった観音像は、手に矢が刺さり、血が滴っていました。正成は自分の身代わりになって矢を受けた観音像を見て「矢疵観音」と呼んだというのです。

この画像の扁額の右側には「十六番礼所聖音寺」の文字が見えますね。調べると江戸時代のころには礼所だったことがあったようです。

実際の下赤坂城と矢疵観音(聖音寺)との位置関係です。金剛山は下赤坂城よりも東にありますが、伝承が正しければ正成はいったん金剛山とは逆の西方向に逃げていったとなりますね。

ただ夢で出てきた翌日に訪問とあるので、金剛山で逃げる最中に敵と遭遇し、その後、夢のお告げがあったので、改めてお寺に訪問したとも考えられます。

聖音寺の内部は非公開のようですが、この中に身代わりになった本尊・如意輪観音坐像があります。ヒノキの寄木で作られており、仏像の高さ40cmほど。

室町期の形式が特徴の像ですが、空海の作あるいは柿本人麻呂の作という伝承があります。

また説明版によると本尊を中心に、右に薬師如来、左に大日如来を安置しているそうです。

境内には地蔵も祀られていました。

境内を見渡すと、他にもいろいろ祀られているのがわかります。

石灯籠などは、もともと東高野街道にあったものをこちらに移してきたようです。

こちらは、金毘羅を祀っている社(やしろ)なのだそうです。

こちらの右に見えるのが稲荷社で、真ん中が牛滝様とのこと。

牛滝様とは、岸和田にある牛滝山大威徳寺(だいいとくじ)と関係があるのでしょうか?もしくは農耕の神として、牛を神体として祠を立てたという伝承もあるようなので、そちらのほうかもしれません。

さて問題はもっとも左に見える石塔です。これが聖音寺を創建した伝承を持つ、柿本人麻呂に関係するといいます。

こちらは「人麻呂塚」というそうです。聖音寺が柿本人麻呂により創建されたという伝承のもとになっている塚です。

ただし、これをもって柿本人麻呂の創建と出来るかどうかについては、人麻呂塚が日本各地にあるので確証はないと説明版には書いてありました。

人麻呂塚を横から見ました。享保年間に書かれた「河内志」という書物で、古跡の条に、「747(天平19)年有河内国人阿保人麻呂、蓋比人乎」と記され、臨終の死の和歌もあり、真の人麻呂塚という学説もあるようです。

後ろから見ました。前後左右を見ても大きな石にしか見えませんが、石碑には次のような歌が刻まれているそうです。

夜もすがら あかしがれらに たくものは 錦織山の妻木なりけり

一般的に柿本人麻呂は石見の国(島根県)で没したとされますが、南河内説を唱える学者もいて、現在のところは不明なんだそうです。

境内には児童公園がありました。小さいうちに遊びながら歴史が学べそうですね。

ということで、矢疵観音・聖音寺を紹介しました。楠木正成の身代わりになった観音伝説を知って来ましたが、実はその前の古代飛鳥時代の万葉歌人・柿本人麻呂伝説もある聖音寺。

ここに来るまでの坂はきついですが、いろんな歴史が渦巻いているこの場所も、できれば歴史に思いをはせながら訪問してみてはいかがでしょう。

矢疵観音・聖音寺
住所:大阪府富田林市錦織南1丁目21-10
アクセス:滝谷不動駅から徒歩10分

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奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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