【戦国こぼれ話】織田信長はなぜ本願寺と10年にわたって戦ったのか。そこには意外な答えがあった
真宗大谷派の浄顕寺(愛知県半田市)に「血判阿弥陀如来絵像」が伝わっているとの報道があった。滋賀県長浜市の信徒らは、この仏画に自らの名前と血判を認め、打倒織田信長を誓ったのだ。なぜ、織田信長と本願寺は長い抗争を繰り広げたのだろうか。
■本願寺とは
本願寺とは、鎌倉時代に親鸞が開いた浄土真宗の一本山である。もともと本願寺は、真宗のなかでも弱小勢力に過ぎなかった。応仁・文明の乱以降、蓮如が教団を拡張して大きな影響力を持った。その後、本願寺は加賀を支配するなどし、戦国大名が恐れるような存在になったのだ。
では、信長と本願寺との戦いは、どのように考えられているのだろうか。
通説的に言うと、本願寺は民衆勢力を結集し、武家勢力の代表である織田信長に戦いを挑んだとされてきた。一向一揆は加賀で守護の富樫氏を倒し、三河では徳川家康に戦いを挑み、それは一向一揆と民衆による武家権力への挑戦と考えられた。信長は、一向一揆の殲滅を最終目標にしていたと指摘されている。
とはいえ、現段階では、この見方が疑問視されている。ここでは、最近の研究を参照しながら、確認することにしよう。
■大名とみなされた本願寺
本願寺は室町幕府に属し、幕府には本願寺を担当する奉行人がいた。奉行人は幕府と本願寺の間を取り次ぐ、重要な職責を担っていた。本願寺は、幕府から大名とみなされていた。幕府は内裏の修理料の負担などを本願寺に命じ、諸国が負担する税なども同様だった。つまり、幕府は本願寺を加賀の一大名とみなしていたのだ。
また、一向一揆は反体制つまり大名と対立した存在であると考えられてきたが、それは必ずしも正しい評価ではない。毛利氏が信長と敵対した際、毛利氏の味方になったのが安芸門徒だ。一向一揆は大名に与同する勢力となったのだが、そうなったのには理由がある。
本願寺門徒は各地の大名領国に散在していたので、本願寺は門徒が安心して信仰をするうえで、大名との対立よりも友好関係を望んだ。本願寺は各地の本願寺門徒を支援すべく、大名と交渉して保護を依頼したのである。この視点から、改めて信長と本願寺との戦いを考えてみよう。
■信長は本願寺の蜂起にビックリした
元亀元年(1570)9月、本願寺は足利義昭・織田信長の軍勢に攻め込んだ。信長はこれ以前から越前朝倉氏、近江浅井氏と交戦に及んでおり、敵対する三好三人衆(三好長逸、岩成友通、三好政康)が摂津の野田・福島付近(大阪市福島区)に陣を敷いたので、本願寺の近くに出陣していたのだ。
かつて三好三人衆は足利義輝を殺害し、京都を中心に支配権を確立したが、信長に敗れて阿波へと敗走。しかし、三好三人衆は味方になる大名と協力し、義昭に叛旗を翻した。もともと本願寺は三好三人衆と良好な関係にあったので彼らに味方し、信長に戦いを挑んだのだ。
通説によると、信長は本願寺に無理難題を吹っ掛け、破却するとまで言ったので、本願寺顕如が蜂起したとされるが、これは誤りと指摘されている。実際は顕如が諸国の門徒に信長への決起を促す檄文を送り、近江浅井氏との同盟を確認していた。対する義昭は朝廷を通して、一揆の蜂起を止めさせるよう依頼していたのだ。
いざ本願寺が信長を攻撃すると、信長は大いに驚いた(『細川両家記』)。つまり、戦いを先に仕掛けたのは信長ではなく、本願寺のほうだった。元亀3年(1572)になると、本願寺は信長と敵対していた武田信玄と結び、さらに信長と激しく対立した。
■本願寺の降参
天正元年(1573)に信長が義昭を追放すると状況は一変し、本願寺は義昭を支援して信長に戦いを挑んだ。ただし、同年に本願寺は頼みとする朝倉氏、浅井氏が信長に滅亡に追い込まれたので、1度目の和睦をする。
天正2年(1574)1月に越前の一向一揆が蜂起すると、本願寺は信長との戦いに再び挑んだが、同年に伊勢長島(三重県桑名市)の一向一揆が信長に敗れて殲滅された。天正3年(1575)には越前の一向一揆も殲滅されたので、同年10月に本願寺は信長に2度目の許しを乞い、和睦が成立した。
同年に毛利氏が義昭を推戴して信長に叛旗を翻すと、再び本願寺は信長に戦いを挑んだ。結局、天正8年(1580)、本願寺は信長に屈し、大坂本願寺(大阪市中央区)を退去した。和睦の際、信長は本願寺に対して、加賀(2郡)の返付を条件として提示した。重要なことは、信長は本願寺の解体を要求せず、降伏後も教団の存続を許したことだ。
本願寺は将軍や諸大名との関係から信長に叛旗を翻したが、信長は決して本願寺の息の根を止めようとはしなかった。信長は本願寺が歯向かったから戦っただけであり、無神論者であるからではない。信長に従えば問題はなく、以後、信長は本願寺と良好な関係を保ったのである。