【戦国こぼれ話】大坂の陣開戦前夜。加藤清正が決死の覚悟で催した二条城会見とは
東京オリンピックの競歩で銅メダルを獲得した山西利和選手は、二条城付近でも練習を行っていたという。今から410年前、徳川家康は豊臣秀頼と面会した。その経緯と理由を考えてみよう。
■二条城の会見に至る経緯
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、徳川家康は豊臣秀頼の優位に立った。とはいえ、形式的には両者の関係は拮抗していたので、家康は何とかして秀頼よりも上に立ちたかった。
そのため、加藤清正が尽力して実現したのが、二条城(京都市中京区)における2人の会見なのである。
慶長16年(1611)3月28日、二条城において家康と秀頼との面会が行われた。 家康にとっては、実に4年ぶりの上洛であった。
しかし、ここに至るまで両者の面会はなかなか叶わず、加藤清正ら秀吉恩顧の大名らが秀頼の説得を行うことで、ようやく実現したという経緯があった。
■会見はじまる
秀頼が二条城に到着すると、家康は自ら庭中に出て丁重に迎え入れた。『当代記』に記されているとおり、家康は対等の立場で礼儀を行うよう促したが、秀頼はこれを固辞した。
そして、家康が御成りの間に上がると、秀頼は先に礼を行ったのである。先に礼をしたというのは、秀頼が家康を上位とみなしたからだろう。これにより、家康が秀頼の上位に立ったのである。
この点については、一般的に家康が秀頼を二条城に呼び出し、挨拶を強要して臣従化を行ったと指摘されている。豊臣家にとっては、大きな屈辱である。
しかし、すでに先学が指摘するように、家康の丁寧な応対ぶりからして、秀頼に臣従を強制したとは考えがたい。
また、挨拶が秀頼の自発的な行為であり、①孫婿・秀頼の舅・家康に対する、②朝廷官位で下位にある秀頼の従一位の家康に対する謙譲の礼であって、臣従の礼ではないという考え方もあるが、これは首肯しがたい。この説では、「謙譲の礼」と「臣従の礼」を使い分けているのである。
■会見の本質
2人の会見の本質は家康が秀頼を二条城に迎えて挨拶を行わせたことにより、天下に徳川公儀が豊臣公儀に優越することを知らしめる儀式であったという説があり、これが妥当であると考えられる。
これは家康により巧妙に仕組まれたものであり、自然な流れの中で豊臣家を下位に位置付けようとしたのである。要するに、招かれた秀頼は、自ら挨拶するよう仕組まれたのだ。
一見して家康は秀頼に配慮を示しているように思えるが、秀頼は「対等の立場で」という家康の提案を受け入れるわけにはいかなかった。
いうまでもなく、その理由は官位などの立場は、家康のほうが上に位置していたからである。家康もその点は織り込み済みであったに違いない。
■老獪だった家康
こうした権力者としての狡猾さが家康の持ち味であって、自ら強制的に命じるのではなく、自発的に行うように仕向けているのである。
家康からすれば形はどうであれ、秀頼を二条城に出向かせ、自分に挨拶をさせることに大きな意味があったのである。こうして秀頼は、家康の下位に位置付けられ、それが天下に知れ渡ったのである。