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広島カープ、優勝へ着々。1975年の初優勝を、衣笠祥雄が回想する その3

楊順行スポーツライター
懐かしの広島市民球場。目の前には原爆ドーム(写真:アフロ)

怖さ? 衣笠のいう、グラウンドで感じた"怖さ"とはどんなものなのか。

「おそらくね、初めてなにかを手にするプロセスの怖さではなく、手にしかけているものを失いたくない、という怖さだったのかな。そしてわれわれより先にファンのほうが、『こうなったら優勝じゃあ!』と熱が入り、殺気立ち、その熱がわれわれにも伝染したこともあると思います。ただ、そういう、初めて味わうプレッシャーのなかで、われわれはいい戦いをしたと思いますね。9月以降は19勝4敗4分けですか。

そして10月15日、後楽園で優勝決定……。この試合は、8回を終わって1対0と、リードはわずか1点だったんです。9回、ホプキンスに3ランが出るまではどう転ぶかわかりませんでした。4対0になって初めて、『勝った』と思いましたね。ホプキンスはほんとに、勝負強い選手でした。キャンプでのまじめな取り組み方、集中力を見たときからそう思っていたんですが、最後の3ランがその証明でもありました」

奇跡ではない。戦力は充実していたのだ

3年連続最下位からの優勝。むろん奇跡的ではあるのだが、当時の広島は戦力的には充実していた。

「そう思います。浩二や水沼(四郎)が入ってきた69年には僕、水谷(実雄)、三村(敏之)はすでに主力で出ているんです。その若手が、当時の監督だった根本さんの青写真通り経験を積み、力をつけて迎えたのがこの75年。そこに足りなかった一番打者として大下さんが加わり、ホプキンスとシェーンという外国人がいて……。

投手陣にしても外木場さん、佐伯(和司)、池谷(公二郎)という三本柱を、阪急からきた宮本(幸信)さん、渡辺(弘基)さん、さらに若生(智男)さんというベテランがうまく支えていました。いまの野球とは、ローテーションや継投のシステムは違いますが、バランスは取れていたと思いますね。

10月15日の優勝の瞬間、最後は、一塁の守備についていたのかな。金城(基泰)が投げて、柴田(勲)さんが打ち上げた打球をレフトの水谷が捕って……直後、控え選手がベンチから飛び出し、三塁側ベンチの前ですぐさま古葉監督の胴上げが始まったでしょう。その輪には間に合わず、そのうちに、ファンも大挙してグラウンドに出てくるわ……。優勝慣れしていないからファンもどうしていいかわからず、警備側もファンの動きに予測がつかず、それでグラウンドまでなだれ込んできたのかな(笑)。

直後は喜びより、開放感が先でしたね。オールスターが終わってからずっと、なにかに追いかけられている気がしていたんです。初めての経験で疲れはどっとつのるし……僕は現役時代、5回優勝をさせてもらっています。次の79年のときは、日本一も味わいました。だけどやっぱり、この75年は別格ですね。1回目に勝る感動はない。人って、そういうものじゃないですか。

また75年当時は、球団の創設に尽力された方がまだまだお元気で、そういう方の声を聞けたのがなによりでした。創設から26年間、ずっと支えてくれたファンの声を、あれほど身近に感じたこともありません。そういう思いがいっしょくたになって、優勝から5日後のパレードまで、広島の街は大騒ぎだったと思います。ファンはほとんど、仕事にならなかったんじゃないですか。

優勝パレードには、30万人が集まったといわれましたが、パレード自体、その1回きりなんです。広島には大きなお祭りがないということで、77年からは、優勝パレードを原型とした『ひろしまフラワーフェスティバル』が5月に行われるようになって。ですから、パレードの経験があるのは75年の優勝メンバーだけで、その点でも感慨深いですね。

広島はいま、リーグ優勝からもっとも遠ざかっているチームでしょう。前回の優勝は91年ですから、球団創設から初優勝までの期間にそろそろ近づいています。過去の優勝を知らないカープ女子の皆さんにも、ぜひ優勝の美酒を味わってほしいですね」

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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