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若生正廣氏勇退。東北高時代のダルビッシュとの秘話 その2

楊順行スポーツライター
2003年センバツの開会式終了後、球場外周でダルビッシュにアクシデントが(写真:岡沢克郎/アフロ)

 2003年、第75回センバツは大会前から、2人のカタカナ名投手の話題でもちきりだった。東洋大姫路(兵庫)のグエン・トラン・フォク・アンと、東北(宮城)のダルビッシュ有である。

 アンはベトナム難民の子息。前年の秋、公式戦11試合のうち8試合に登板して6完投のサウスポーだ。そして、父がイラン人のダルビッシュ。最速147キロの速球と多彩な変化球で、前年秋は1年生ながら公式戦13試合に登板し、4完投のうち完封が3。投球回数を大きく上回る71の三振を奪い、破格の防御率0.60は、出場34校の全エース中トップである。

ん? いちおう、監督さん

 とりわけ、前回書いたようにモデルなみのルックスであるダルビッシュは、人気も破格だった。若生正廣氏が、驚嘆まじりに振り返る。

「開会式の日、球場にバスを横付けするでしょ。そこから降りようとしたら、すごい勢いで女の子の集団が押し寄せ、取り囲むんだよ。"なんだなんだ危ないぞオマエら、やめろやめろ……"といっても、女の子たちはひるまない。それどころか"おっちゃん、だれ?"(笑)。こっちも気勢をそがれて"ん? いちおう監督さん""ああそう、でも邪魔だからどいて"。もちろん、目当てはダルビッシュです。注目されることはわかっていたけど、まさかあれほど女の子たちが詰めかけるとは……」

 いつの時代も、女の子たちは目ざといのだ。球場入りするこのときはなんとか事なきを得たが、アクシデントがあったのは開会式終了後だ。開幕試合に臨むチーム以外は、いったん球場の外周に出るのだが、縦じまでわかりやすい東北ナインのユニフォームを、目ざとい彼女たちが見逃すはずもない。ダルビッシュはアッという間に人波にもまれ、さらに腕を引っ張られる。そして悪いことに……このどさくさで、右わき腹を痛めてしまった。ちょうど今季、中日の春季キャンプで、松坂大輔が見舞われたアクシデントと同じだと思えばいい。

 その影響もありダルビッシュは、浜名(静岡)との初戦こそ4安打1失点で完投したものの、続く花咲徳栄(埼玉)戦では大敗を喫することになる。9対10。6回を投げたダルビッシュは12安打6失点で、

「あんなに打たれたのは見たことがないね」

 と若生氏は回想する。

 それにしても……入学当初から、故障を避けるために大事に大事に育ててきたのに、思いもかけないかたちでケガをするのだから、若生氏にとってはなんともやりきれなかっただろう。

精巧なガラス細工のようで……

 中学時代、26センチ伸びた身長は190センチを超えたが、ダルビッシュの体重はわずか69キロだった。細いばかりかいわゆる成長痛につきまとわれ、過度な負荷をかけるなど対応を誤れば、「球界の財産」(若生氏)が台無しになる。希少価値の高い原石を研磨するには、精緻さと細心さが不可欠だった。若生氏はいう。

「ピッチャーの場合大切なのが、リリースのとき、下半身の力をいかに上半身に伝えられるか。だからオレは、股関節を重視するんです。だけど有には、やっかいな成長痛があるでしょ。長い指導者生活のなかでも見たことがないほどのやっかいさで、それとうまくつきあいながら、どうやって肉体改造をしていくか……というのが、1年目のテーマだったね」

 だからダルビッシュは高校に入学すると、柔軟体操やプールトレーニングに明け暮れた。水の抵抗を受けながら大股で歩き、泳ぐ。体重移動のカギを握る股関節が硬いため、柔らかくすることをテーマに、1000回ずつの腹筋と背筋。さらに、相撲取りがやる股割りなどのストレッチを入念に、地道に繰り返していく。3カ月がたつころには、両脚を180度に開き、前屈した上体がべったりと床につくようになっていた。

 ただし、そんな地道なトレーニングばかりでは、やはりおもしろくなかったのだろう。入学して1カ月もたつと、

「先生、僕、投げたいんです」

 とアピールしてきた。

「不安はありましたよ。ピッチング練習をしていないのに、大丈夫なのか。せっかくトレーニングの成果が出はじめているのに、成長痛を悪化させはしないか。だけど、自分もピッチャーだったからわかるけど、自分から投げたい気分なら、そうそう故障はしないもんですよ」

 そこで思い切って、春の地区予選で1イニングだけ登板させると、いきなり147キロだ。練習していないのにこのスピードで、しかも簡単にストライクが取れる。やっぱり、コイツはすごいな……と目を丸くした。そして夏の宮城県大会では背番号11を与え、早くもエース・高井雄平(現ヤクルト)に次ぐ存在になっていた。

「2学年上に、高井がいたのも大きかったよね。高井は2年のときには150キロをマークして、高校ではトップレベルでしょ。だから、有に頼らなくてもよかった。もし高井がいなければ、大事に育てるつもりでもどこかで目先の勝利を欲張り、有に無理をさせていたかもしれないね」(つづく)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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