武田信玄に逆らって、歴史上から消えた3人の戦国武将
大河ドラマ「どうする家康」は、武田信玄が圧倒的な存在感を示した。今回は、信玄に逆らって、歴史上から消えた3人の戦国武将を紹介することにしよう。
1.諏訪頼重(1516~42)
諏訪頼重は諏訪大社(長野県諏訪市)の大祝の家系に生まれ、天文8年(1539)に家督を継承した。かつて、諏訪氏は武田氏と抗争を繰り広げていたが、天文9年(1540)に頼重が禰々(武田信虎の三女)を妻とし関係を修復したが、その関係は長く続かなかった。
天文10年(1541)になると、武田信玄は諏訪郡に攻め込み、頼重は降伏した。その後、頼重は甲府に連行され、自害を命じられた。こうして諏訪氏は滅亡したが、信玄の四男の勝頼(母は諏訪御料人)が諏訪家の名跡を継いだのである。
2.笠原清繁(1515~47)
笠原氏は諏訪氏の一族だったと言われており、信濃国佐久郡の志賀城(長野県佐久市)を本拠としていた。清繁は関東管領の上杉憲政、縁戚関係にあった上野国の高田氏の支援を得て、武田氏に対抗した。武田氏が志賀城を攻撃したのは天文16年(1547)のことである。
上野国からは金井氏らが清繁の援軍としてやって来たが、信玄はこれを撃退。結局、志賀城は落城し、その際に清繁も討ち取られ、笠原氏は滅亡したのである。戦後、周辺で武田軍の乱取りが行われ、生け捕りにされた人々は甲斐に連行されたという。
3.長野業盛(1544~66)
長野業盛は上野国箕輪城(群馬県高崎市)主で、永禄4年(1561)に弱冠17歳で家督を継承した。それまで、父の業正は武田氏と抗争を繰り広げ、撃退することに成功していた。いかに業盛が武勇に優れているとはいえ、苦戦が予想された。
永禄9年(1566)、信玄は2万という大軍を率いて、上野国に攻め込んだ。業盛は箕輪城で防戦に努めたが、9月に一族や配下の者たちと自害して果てた。これにより長野氏は滅亡したが、業盛の弟は信玄に仕えたと言われている。
信玄が領土拡大のための戦争をする中で、信濃国、上野国などの領主は抵抗したり、あるいは服従したりした。この3人は信玄に屈することを潔しとせず、果敢に戦いを挑んだが、ついに滅亡したのである。