Yahoo!ニュース

「あっちの世界」に蓋をした現代人必読「森鴎外が「舞姫」において語った心の謎」

ひとみしょう哲学者・作家・心理コーチ

森鴎外の「舞姫」を好意的に読まない人がいます。そういう人たちはたいてい、「エリートが売春婦を孕ませて知らんぷりするとか、そんなのありえないから。鬼畜か」と言います。まあ、たしかに鴎外は「舞姫」の主人公をそのように描いていますので、そういう感想を抱くのも無理はないでしょう。

しかし小説とは、その構造を読むことで「真に読んだ」と言えるものです。つまり小説は構造をもっており、その構造を読解することを「読解」と言います。が、高校の教科書の「論理国語」のほとんどは論説文で占められています。まるで小説には論理がないと言わんばかりに。

さて、「舞姫」の構造はどうなっているのでしょうか。

「こっちの世界」と「あっちの世界」という二項対立の構造になっています。

「こっちの世界」とは、世間に顔向けできる世界のことです。東京大学を卒業し、エリート官僚の道を歩む自分。留学先で法学を熱心に勉強する自分。

他方、「あっちの世界」とは、暗くてじめっとしていて、それゆえどこかしら言語化するのがむずかしくて、エグさを内包する世界です。貧しい踊り子になぜか心惹かれてお金を貸した自分。法学ではなく、官僚としての出世にさほど関係のない文学や芸術になぜか心惹かれがちな自分。死と隣り合わせの世界にいる自分。そういう自分が「あっちの世界」です。

よき市民として暮らそうと思えば、「あっちの世界」を見てみぬふりをし、「こっちの世界」に軸足を置いて頑張るしかないのは、みなさんよくご存じのとおりです。「あっちの世界」にはしっかりと蓋をして、「あっちの世界」のにおいが「こっちの世界」に漏れ出てこないよう細心の注意を払いつつ生きる。そういったことを多くの人が(じつは)やっておられるでしょう。

しかし鴎外は「舞姫」において、蓋をするのに失敗した主人公を描きます。だから彼(主人公)は、「こっち」と「あっち」の狭間で葛藤し、結局、心労で倒れてしまう。何日も昏睡状態が続いているとき、彼の親友が「あっちの世界」をコンクリートで塗り固め、彼を「こっちの世界」すなわち日の当たる出世街道へと引き戻します。そのことに彼は今でも、葛藤しています。

以上の構造は現代においては、さほど珍しいものではなく、たとえばキルケゴール哲学に見ることができます。すなわち「無限性と有限性」の葛藤という構造です。しかし、鴎外が生きた時代においては、おそらく珍しいものだったように思います。まだキルケゴールの著作もフロイトの著作も日本に十分に入ってきていなかったでしょうし、なにより封建制、家父長制、「こうすべき」という儒教的「べき論」が幅を利かせていたのですから。

現代社会は「あっちの世界」にどんどん蓋をして、よりクリーンでわかりやすい世界を目指します。その傾向は留まるところを知りません。しかし、私たちの心には、いわく言いがたい「あっちの世界」が潜んでいます。意思の力でそれに蓋をしても、そのにおいは必ず漏れ出てきます。だから鬱っぽくなるのだし、だから統合失調症っぽくなるのだし、だから不眠っぽくなるのです。

「こっちの世界」と「あっちの世界」のバランスをひとりひとりが意識することが肝要かと思います。(ひとみしょう/哲学者)

哲学者・作家・心理コーチ

8歳から「なんか寂しいとは何か」について考えはじめる。独学で哲学することに限界を感じ、42歳で大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なんか寂しいとは何か」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』(ともに玄文社)、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道先生主宰の「哲学塾カント」に入塾。キルケゴールなどの哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミーと人見読解塾を主宰している。

ひとみしょうの最近の記事