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【難民問題を考える】多様性が可能性を広げ、活力をもたらす

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

迫害や内戦から祖国を逃れ、外の国に助けを求める難民。そんな彼らを積極的に受け入れている中小企業がある。八王子市の栄鋳造所。これまでに、ミャンマー、イラク、シリアなどから来た人々を雇い入れた経験があり、今年は1年の研修期間を経てカメルーン人を1人を正社員にした。労働条件は日本人の社員と一緒だ。ほかに、研修中のエジプト人とエチオピア人がいる。難民のほかに、韓国人やフランスから来たインターンなどもいて、従業員30人の物作り企業にしては、なんだかとても国際色豊かなのだ。「難民を助けてあげたいと思って始めたわけではないんです。戦略的に人材を探していて、難民に行き着いただけで」と鈴木隆史社長(41)。それっていったいどんな戦略? 話を聞いていくと、そこにはどん底を経験した鈴木さんの波乱万丈の日々と、難民雇用にとどまらないスケールの大きな経営プランがあった。

母に懇願され渋々父の会社へ…

難民受け入れに至るには、少々長い前史がある。

会社事務所での鈴木さん。社長室はなく、他の社員と机を並べて仕事をする。
会社事務所での鈴木さん。社長室はなく、他の社員と机を並べて仕事をする。

同社は、鈴木さんの祖父が戦後まもなくに始めたアルミの鋳物工場から出発。鈴木さんは、2008年に交通事故で急死した父親から引き継いで4代目の社長だ。もともと製造業には関心はなく、「サービス業で人と対話するのが好きだった」という彼は、会社を継ぐ気はなく、高校卒業後サラリーマンとして就職した。

「鋳物の世界は、技術習得に時間がかかる職人の世界で、その頃うちで働いていた人も、60代がメイン。工場の有線では歌謡曲ではなく、軍歌が流れてました」

会社の今後を考えた父親は、老練な職人に頼らず、安く、速く製品を作れる最新のVプロセス工法設備を導入。その資金繰りに孤軍奮闘する姿を見かねて、母親に毎日のように懇願され、とうとう折れた。鈴木さんが22歳の時だ。

当時は、いわゆる3K職場として、若手に敬遠されがちな職場だった。鈴木さんは、かつて勤めていた会社の先輩や後輩に頼み、工場でアルバイトをしてもらって感じた問題点を指摘してもらった。「汚れる仕事なのにシャワールームがない」といって指摘を一つひとつに職場環境の改善に結びつけ、従業員の若返りを図った。

鈴木さんが営業に駆け回り、父親が工場で現場を監督した。父親は「やりたいことはやれ。ケツはオレが拭いてやる」と息子を励ました。実際、失敗した時には一緒に頭を下げてくれる父だった。

倒産、復活、そして最大の危機

祖父の代からやっていた一般鋳物の仕事は、すでに工賃が安い中国へ。主な仕事は、自動車のシートの中身を作るための金型作りだった。バブルがはじけた後も、消費税が3%から5%に上がる前の駆け込み需要、軽自動車の安全基準基準の変更などがあり、順調に業績は上がって1998年が売り上げのピークとなった。

しかし、駆け込み需要の反動などもあり、その翌年から業績は急降下。月々6000万円くらいあった売り上げは300万円にまで落ち込み、50人以上いた従業員は3人にまで減った。有限会社栄鋳造所は事実上の倒産。それでも、一軒だけ発注を続けてくれたお客の存在を励みに、新たに株式会社栄鋳造所を設立して、鈴木さんが社長となった。いくつもの訴訟を抱えながらの再スタートだった。

インターネットなども活用し、医療機器メーカーからの受注など、新たな分野での仕事を開拓。徐々に業績は上向いていった。自動車業界からの仕事も復活した。

ところが……。

栄鋳造所
栄鋳造所

2008年7月に父親が急死。前年にはホノルルマラソンに出場するなど元気いっぱいだったが、自転車で走行中に、うしろから来た軽自動車にはねられた。この時から、会社の全責任を鈴木さんが背負うことになった。

それまで父親が管理していた金庫の中を確認して、愕然とした。財産らしきものは一切なく、あったのは社会保険と消費税の滞納に関する書類だけだった。その額は約6000万円。ほかに、億単位の借金があった。会社で生命保険をかけていたはずだと、保険会社に電話を入れた。すると、「3ヶ月前に解約されています」という返事だった。

「この時、人生で初めて、夜逃げしようと思った」と鈴木さん。

金を借りようと銀行に行っても、すでに業績が少し下がり始めていたこともあって、貸してもらえなかった。3年間で経営を立て直す事業計画には、見向きもされない。有限会社時代の訴訟が尾を引いて、保証協会にも頼れなかった。

「どうしようもなくなった時に助けて下さったのが地元の信用金庫さんでした」

税務署と社会保険事務所にも通い詰め、月々の返済計画を立てた。

なんとか経営を立て直そうとあがく鈴木さんに追い打ちをかけたのが、リーマンショックだった。景気が落ち込み、八王子の町工場でも仕事は激減。

どんな仕事でもやろうと、必死に営業に回った。当時、流行始めた「白鯛焼き」の型を作る仕事を受注し、しのいだ。

「鯛焼きの型って、鋳物屋さんだったらどこでもできる。そういう仕事を受けたので、『お前んとこも、落ちたなあ』と言われました。でも、それどころじゃない」

グローバル化への模索

そうこうするうちに、大手企業と共同開発していた新製品が完成した。水冷式の薄型冷却パネル(コールドプレート)だった。これを主力商品にして、再び業績は上向いた。この頃、鈴木さんの周囲の経営者は、ASEAN諸国に目を向けていて、実際に進出を決めたところもあった。事業が軌道に乗り、社内の分業体制を整えた2010年になって、鈴木さんもようやくアジアの国々を見て回るようになった。

取引先の会社から、タイへの進出を誘われた。その会社の空いたスペースを貸してくれ、初期費用も負担してくれる、という好条件。現地を見に行き、腹はほぼ固まった。だが、直後に日本企業の下請けをしている現地工場を視察して、気が変わった。タイ人の社長がニコニコしながら分厚いファイルを持ってきて、「これは○○(企業名)さんから授かった魔法の本です」と言った。これによって原価が格段に下がる魔法の本だ、と。

「それを聞いて、下請け企業を人件費カット、原価カットで競わせ、首の締め合いをさせる構図が、すでに日本の大手によって持ち込まれていると分かった。これでは、僕らのような体力のない会社がASEANに進出しても失敗する」

その後、鈴木さんは欧米に目を向ける。シリコンバレーを視察した際、「ここには5000社の物作り企業があるが、その9割が中国、韓国、台湾の企業だ」と言われて、衝撃を受けた。アップルから受注を受けている中国系企業では、「2年先まで仕事は埋まっている」と聞いた。

「一方の僕らは、『来月どうしよう』と言っている。品質がいいとか技術があるとか言っていても、ビジネスでは完全に彼らに負けているなと思った」

無性に悔しかった。帰りの飛行機の中でひたすら考えた。なぜ彼らは仕事を取っていて、我々は負けているのか……。

「外国人を探してきてくれ」

「理由は2つあるなと思った。一つは言葉の壁。もう一つはマインドの壁。この2つを解決すれば、うちもグローバルに打ち出せる、と」

帰国後、今後のグローバル展開のための戦略を練り、人材派遣会社からヘッドハンティングした専務に最初の指示を出した。

難民など外国人のために作業の工程を英語で説明するパネルをみんなで作った
難民など外国人のために作業の工程を英語で説明するパネルをみんなで作った

「日本語はしゃべれなくていいから、不法就労ではなく、3年で帰ってしまう技能実習生以外で、外国人を探してきてくれ」

技能実習生では苦い思い出があった。父親が、亡くなる半年前、3人のインドネシア人の実習生を入れた。リーマンショック後に、どうしても社員をリストラしなければならなくなった時、鈴木さんは悩んだ。この3人に国に帰ってもらえば、解雇する日本人社員を減らせる。けれども、父がかわいがっていたインドネシア人たちに、3年間で鋳造の仕事を覚えさせ、技術を母国に持ち帰ってもらうことが、供養になると思い、この3人は残した。

ところがこの3人は、帰国後、鋳造とはまったく別の道を歩んでいることを知った。1人は日系の商社に就職。1人は日本で貯めたお金でアメリカに留学し、もう1人は舟を買って漁師になっていた。いったい何のための実習だったのか、と思った。

そこで専務が探してきたのが、難民だった。最初の1人は、NPO法人難民支援協会から紹介された、すでに難民認定されているミャンマー人。日本語、英語、中国語ができる多言語対応が強みだった。その彼に鈴木さんはこう言った。

「母国が民主化されて帰れるようになるまでに、技術をしっかり習得して欲しい。我々の技術は、日本の高度成長を支えた。あなたの母国が発展する時に、絶対に必要な技術だと思う。あなたがこの技術を生かしてミャンマーで起業し、人々を雇用して欲しい。その時に我々は投資したい」

これが、鈴木さんが考えていた戦略だった。労働者としてだけでなく、将来にわたるヒューマンリソースとして、難民を受け入れたのだ。

やってみて見えてきた問題点

続いて、難民認定の申請中だが、就労の許可は出ているイラク人。その後、シリア人の3人組を紹介された。

しかし、いずれも長続きしない。文化の違いに加え、硬直した制度も壁となった。たとえば、シリア人3人の住まいは埼玉県にあり、そこで生活保護を受けていた。引っ越す資金がなく、片道2時間かけて通勤するうちに2人が体調を崩し、やめてしまった。

「引っ越しの費用を貸してもらえれば、彼らは八王子に移って、今でも働いていたと思う。そうすれば、生活保護に頼ることなく、仕事をした給料で自立し、税金や社会保障費も収めていたはず。生活保護生活に戻ってしまったと聞いていますが、税金の使い方について、行政はもう少し考えた方がいいのではないか」と鈴木さん。

そういう失敗もあったので、新たに採用したカメルーン人は、鈴木さんが個人的に引っ越し費用を貸した。1年間の研修で仕事に慣れ、正社員になった。さらに、難民支援協会と共同して、就職しようとしている外国人を集めて、日本語や日本の企業文化を教える研修を実施した。通勤の電車が遅れたら遅延証明をもらうなど、細かいことまで教え、企業で1~2週間のトレーニングをした後に、合同説明をやって、面接をする。そうしたプロセスを経て、エジプト人とエチオピア人を新たに採用。他の企業に就職できた卒業生もいる、という。

主力製品のコールドプレートを多言語でPR
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難民だけではない。インターンシップ生だった韓国人の青年は、内定を出してくれた母国の大企業を断って、栄鋳造所に就職した。フランスの大学とも、インターシップ生を受け入れる契約をした。第一号は大学院生のモロッコ人。欧米に出かけていって、各国で日本の中小企業の技術や製品に関心を持つ人たちを探し、そのネットワークを築いていった。彼らが、それぞれの国の言葉で、それぞれの国に馴染んだやり方でマーケティングを行う。今の同社は、日本語のほか、英語、ドイツ語、フランス語、ペルシャ語、韓国語に対応できる。会社のホームページはイタリア語、ロシア語にも対応している。

海外に展開するメリット

カメルーン人のコンスタントさんは正社員。難民認定申請中で就労の許可を得ている。
カメルーン人のコンスタントさんは正社員。難民認定申請中で就労の許可を得ている。

商社を通さず、自分たちで直接海外と取り引きして、グローバルに展開するのが、鈴木さんの狙いだった。こうしたやり方で、今では売り上げの7割は海外との直接取引だ。

「飲食店でも美容院でも、価格は決まっていますよね。ところが製造業の場合は、単価の下げ合いや納期の競い合いが激しく、それでお互い首を絞め合っている状況。適正な価格で買ってくれるお客を探した結果、7割が海外になった、ということです」

少子高齢化の中、内需を拡大しようとしても限界がある。

「そういう将来の日本を考えた中でのビジネスモデルでもあります。製造業もオリンピックまではいいと言われますが、その後はどうするのか。内需を拡大したかったら、外国の意欲ある人をどんどん入れていくしかないと思いますよ。大手が根こそぎもっていくので、人手不足は中小企業から始まります。だったら、難民を活用したり、直接海外とインターンシップをやって、いい人材を確保していなかければ」

外国人も日本人も賃金体系は同じ。外国人を採用するようになって、日本人社員も英語を勉強し、彼らとコミュニケーションを図るようになった。同社では、就業時間に外国人は日本語を、日本人は英語を勉強することが許されている。作業工程を英語で書き、言葉が通じないところは身振り手振りも交えて、外国人社員に技術を教えている。

多様性が可能性を広げ、活力を生み、業績はますます伸びている。

このような活動が認められて、経済産業省による「ダイバーシティ経営企業100選」にも選ばれた。

「誉められたというより、ケツを叩かれたんだと思う。これをもっと他の中小企業に横展開しろ、と」

日本の中小企業の技術やサービスを伝える海外向けの雑誌を作った。そのほか、他の中小企業が直接海外とつながり、グローバルな展開ができるよう、本気でがんばろうと鈴木さんは考えている。

「テロの危険がある国もある。そういう国から、若い意欲のある人をたくさん連れてきて、労働力としてがんばってもらいながら、しっかり技術を教える。そして彼らが戻る時に、母国でのインフラを整える建築土木、その他物作りの技術を持ち帰ってもらう。そこに投資もして、裏から支える。そんなやり方が、日本らしくていいんじゃないでしょうか」

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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