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【戦国こぼれ話】本能寺の変で徳川家康は危機一髪!「神君伊賀越え」でピンチを脱したのは事実なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康は「神君伊賀越え」でピンチを脱したというのは事実か?(提供:アフロ)

 コロナ禍でいかにして危機を乗り越えるのかは大きな課題だ。本能寺の変が勃発した際、徳川家康は「神君伊賀越え」でピンチを脱したというが、それは事実なのだろうか?

■本能寺の変の勃発

 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が勃発し、織田信長は横死した。このとき徳川家康は、和泉堺(大阪府堺市)で見物の最中であったが、光秀に討たれるという危機が迫っていた。

 家康は自害しようと考えたが、それは家臣らの説得により取り止めた。難を避けるためには、一刻も早く領国の三河へ戻る必要があり、家康は伊賀を越えて船で三河へ帰国しようと考えた。

 その帰国ルートが「神君伊賀越え」と称されるものである。なお、「神君」とは、家康の尊称である。

 当時、家康に従っていた者たちは、「徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)」の面々がいたとはいえ、わずか34名に過ぎなかったという。

■「神君伊賀越え」のルート

 家康の逃避行のルートはさまざまな編纂物に記されているが、現在では比較的良質な史料の『石川忠総留書』の記述が有力視されている。以下、そのルートを確認しよう。

①6月2日 堺→平野→阿倍→山のねき→ほたに→尊念寺→草地→宇治田原

②6月3日 宇治田原→山田→朝宮→小川村

③6月4日 小川→向山→丸柱→石川→河合→柘植→鹿伏兎→関→亀山→庄野→石薬師→四日市→那古

 道中には、家康の命を狙う農民らが「落ち武者狩り」を行っていた。途中、家康とは別ルートで脱出しようとした穴山梅雪は、「落ち武者狩り」に討たれたという。

 こうして家康ら一行は那古(三重県鈴鹿市)から船に乗り三河に向かい、大浜(愛知県碧南市)に到着したという。そして、岡崎城(同岡崎市)へ無事に帰還を果たした。まさしく奇跡という言葉がぴったりであった。

■「神君伊賀越え」のルートの異説

 ところが、以上のルートのうち、伊賀を越える道のりについては、異説が知られている。次に示すことにしよう。

①『徳川実紀』 小川→多羅尾→御斎峠→丸柱

②『三河記(戸田本)』 小川→甲賀越え→関

 ①については、伊賀惣国一揆(地侍層が一国的規模で団結した組織)の政庁がある上野(三重県伊賀市)に近いうえに、そもそもが遠回りになるので、認めがたいとする見解がある。

 ②については、近江の甲賀衆(山中氏、和田氏など)の案内も想定され、山中氏の勢力下の水口(滋賀県甲賀市)から和田氏の勢力下の油日(同)から柘植(三重県伊賀市)に抜けるルートが想定される。

 しかし、このコースでは伊賀までがわずか5キロメートルになるので、伊賀・伊勢を通過したという記録に矛盾が生じてしまう(『家忠日記』)。

 このように考えてみると、やはり『石川忠総留書』の記述が信頼できるようである。また、乗船地についても、白子(三重県鈴鹿市)、四日市(同四日市市)、那古(同鈴鹿市)の諸説がある。

 家康が到着した場所についても、大野(愛知県常滑市)という説がある。ただ、後者については、『家忠日記』に記載された大浜(愛知県碧南市)を信用すべきであろう。

■まとめ

 このように「神君伊賀越え」については、たしかな根拠史料がないため、未だに論争が続いている。

 いずれにしても、家康がやみくもに脱出をしたとは考えられない。おそらく当時の慣習にならって、土地に詳しい案内者を使い、合理的なルートで脱出したのは、疑いないと考えられる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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