【光る君へ】正暦・長徳年間の疫病は、公家や庶民を恐怖のどん底に陥れていた
大河ドラマ「光る君へ」では、前回に引き続き、疫病が蔓延していた模様が描かれていた。もはや、当時の人々の医学のレベルでは、対処のしようがなかったが、いったいどういう状況だったのか考えてみよう。
正暦5年(994)、藤原道長と妻の倫子の間に娘の妍子が誕生した。妍子は道長の娘の中でも、その美貌が特に優れていたという。2人にとっては、誠に幸せな瞬間だった。しかし、世間では疫病が蔓延するという、由々しき事態に陥っていたのである。
『日本紀略』などの史料によると、前年の6月頃から京都市中における疫病の蔓延が問題視されており、大般若経の転読が行われていた。当時の医療レベルでは、神仏にすがるしか手がなかったのである。
疫病の正体は、史料に「疱瘡」とあるので、天然痘だったと考えられる。同じ頃、天変地異が起こっており、天候が不順でもあった。こういうことも影響していたのか。
疫病の発生源はどこだったのか。大宰府から朝廷への報告によると、正暦4年(993)の11月頃から九州の大宰府で疫病が発生し、府中では人々の死体で溢れていたという。しかし、すでに同年6月から疫病は京都市中で蔓延していたのだから、大宰府を発生源とするのは、いかがなものだろうか。
『栄花物語』には、正暦4年(993)の春頃から病気になる人が増加し、道には疫病で亡くなった人の死骸が遺棄、放置されるなどしたので、大変な事態になっていたとある。先述のとおり、同じ頃に妍子が誕生したが、それは恐ろしい時代における「慶事」として、喜ばれたのである。
世上が疫病のことで騒がしくなったので、関白の藤原道隆、女院の藤原詮子もいつ自分が疫病に罹るのかと恐怖していたという。それは普通の人々も同じことで、長徳元年(995)1月になっても疫病が終息しなかったので、恐怖に恐れおののいていた。
庶民は大いに動揺し、人々はすべて悲惨な最期を迎えるのではないかと悲観した。それだけでなく、四位、五位のみならず、さらに上位の公家らが死んでしまうのではないかと恐れた。その言葉どおり、藤原道隆・道兼兄弟、藤原朝光、藤原済時、藤原道頼(道隆の子)が次々と亡くなったのである。
『日本紀略』などによると、疫病が終息したのは、長徳元年(995)7月頃だったという。なんと、人々は約3年にわたって疫病に苦しめられたのである。