ギャルはこのまま終わるのか?――相次ぐギャル雑誌の休刊とギャルの激減
今年は、ギャルの存亡が話題となった一年でもありました。ギャル雑誌は次々と休刊し、ストリートでもギャルの姿をあまり見かけなくなりました。
そうしたなか、私は2年前に日本の若い女性の歴史を描いた『ギャルと不思議ちゃん論』(原書房)という本を上梓したこともあり、ギャルについてのコメント取材をふたつ受けました。ひとつが、朝日新聞2014年5月23日の「ギャルが消えた? 雑誌からも街からも」という記事で、もうひとつが『日経エンタテインメント!』2014年10月号の「ギャル雑誌の連続休刊 渋谷発ファッションは郊外へ」という記事です。
ただ紙幅の関係上、私のコメントはこれらの記事では一部しか掲載されていないので、ここであらためてギャルについて述べておきたいと思います。
雑誌文化の衰退
まず必要とされるのは、ギャル雑誌の衰退とギャル文化の衰退を分けて考えることでしょう。
これまでギャル文化において、雑誌は大きな役割を果たしてきました。しかし、今年は有力なギャル雑誌がいくつも休刊しました。90年代後半の〈コ〉ギャルブームを牽引した『egg』(大洋図書)、00年代後半にキャバ嬢スタイルで一斉を風靡した『小悪魔ageha』(版元のインフォレストが倒産)、そして『Popteen』の姉雑誌である『BLENDA』(角川春樹事務所)などがそうです。この三誌は、まだ元気があった2008年の段階では、ファッション誌全体の中では以下のようなポジションにありました。
この図からは、他にもギャル誌では大人向けの『GLAMOROUS』(講談社)や『Cawaii!』(主婦の友社)、ローティーン向けの『Hana* chu→』(主婦の友社)なども去年までに休刊しています。
そうした流れはギャル誌だけで起きているわけではありません。そもそも雑誌そのものが、90年代後半から低落傾向が止まらない状況です。インターネット、とくにブロードバンドが普及した00年代になると雑誌は激しく落ち込みましたが、そのなかでもファッション誌は唯一と言っていいほど堅調なジャンルでした。しかし、00年代後半からは目に見えて退潮が始まったのです。
それは、ファッション誌の中心に位置する赤文字4誌――『CanCam』・『ViVi』・『JJ』・『Ray』の推移を見てもわかります。それが以下のグラフです(これは、あくまでも発行部数で表したもので、実売はこの7割ほどだと考えられます)。
ここ2年ほどは下げ止まっているようにも見えますが、『ViVi』が徐々に落ちてきていることは気になります。また、こうしたなかで生じてきたのは、苛烈な付録競争でした。宝島社の『Sweet』などが付録によって部数をかなり増した時期もありますが、そうした競争によって利益率は下がっていると考えられます。
00年代後半からファッション誌が落ち込んだ要因はさまざまですが(少子化、付録競争のマンネリ化、人気モデルの卒業等)、そのひとつにスマートフォンの普及があげられるでしょう。それまでのケータイと違って、スマートフォンは大画面によるヴィジュアル的な強みを持っていました。紙の雑誌は、テキストだけでなくヴィジュアル面の機能も携帯電話に奪われてしまったのです。
なかでも『egg』や『小悪魔ageha』などの読者層は、スマートフォン以前はパソコンをさほど使わないケータイのヘビーユーザーでした。06~07年頃にかけて起きたケータイ小説のブームは、そうして導かれたものです。逆に言えば、パソコンではなくケータイのみでネットにアクセスするがゆえに、彼女たちは雑誌が発信する情報を必要としていました。それがスマートフォンによって必要なくなったわけです。
ただし、ギャル雑誌の低迷だけでギャル文化の退潮を説明することはできません。ギャル雑誌に限らず、紙の雑誌がかなり力を失っている時代になっているからです。映画やアニメなど、雑誌は売れてなくとも2000年代になって活性化したジャンルもあります。
若い人と接していると、雑誌離れはとても痛感します。しかしこうしたことは、あまり指摘されてきませんでした。なぜなら、ギャル文化の退潮を記事にする媒体の多くは、出版社だったからです。つまり、雑誌が「雑誌の時代はもう終わりだ」などとは、立場上なかなか書けないのです。とは言え、そんな面目にこだわるような姿勢だからこそ、出版社は電子化への移行が遅れてマーケットをIT系の新興媒体に喰われてしまったわけですが――。
読者モデルのインフレ化
ギャル雑誌の退潮でもう一つ見逃してはならない点は、読者モデルのインフレ化です。『egg』や『小悪魔ageha』が数多くの読者モデルを誌面に登場させることによって人気を得てきたように、ギャル雑誌は読者と地続きのコミュニティ機能が売りのひとつでした。
先にも触れたように、これらの雑誌は当時ネットにあまり趣味コミュニティを持たない層に場を提供していた側面があります。そのなかから、押切もえや益若つばさ、小森純など、現在も芸能界で活躍するさまざまスターを輩出してきたわけです。益若つばさが『Popteen』誌上で結婚報告などをして活躍した、08年頃が読者モデルブームの最盛期でしょうか。
しかしそれ以降、読者モデルブームは退潮します。あまりにも増えすぎて、その価値が下がってしまったのです。自称「読者モデル」がTwitterやアメーバブログに溢れました。短期的かつ局所的に人気を得る存在は現れましたが、そこから大きく羽ばたく存在はさほどいませんでした(きゃりーぱみゅぱみゅくらいでしょうか)。それは、80年代後半から90年代前半にかけて起こった、音楽の世界でのインディーズバンドブームを思い起こさせます。飽和によるブーム終焉は、あのときの状況とよく似ています。
同時に、スマートフォンの普及は、ファッション誌からコミュニティ機能も奪いました。読者はスマートフォンからTwitterやアメーバブログにアクセスし、個々でコミュニケーションをとるようになりました。こうなると、より身近な存在感を見せるようになった読者モデルの価値は大きく下がり、同時にファッション誌も必要なくなります。従来のファッション誌と読者の関係が大きく変わってしまったのです。
ギャルになるリスク
ここからは雑誌から離れ、ギャル文化そのものについて述べたいと思います。
現在の若い女性たちの文化で全般的に確認できるのは、一言でまとめれば保守化傾向です。10代の性体験率の低下、アイドルブーム、黒髪・清楚ブーム等、各所で保守化を指し示すかのような現象が見て取れます。この傾向はもう3、4年続いています。保守化した理由は、大きく分けて4つあります。
一つ目は経済要因です。若い人たちの可処分所得の使途が、通信費用などにかなり比重を移していることが考えられます。たとえばギャルの特徴である茶髪や金髪にするためには、美容室で2~3ヶ月に一回ヘアカラーをしなければなりません。すると、年間で2~3万円を使うことになります。また、ファストファッションの浸透により、洋服にそれほどお金をかけない生活も浸透しました。ユニクロだけでなく、06年・GU、08年・H&M、09年・フォーエバー21とさまざまなファストファッションのブランドが定着しました。東京で言えば、新宿三丁目は伊勢丹の周囲にファストファッション店が軒を連ねている状況です。
ただ、そうしたことよりもやはり大きいのは文化的な要因です。ギャルのような派手な外見をすることが、若い人たちにはリスクだと捉えられているからです。
これは、やはり若者たちのコミュニケーションがさらに複雑化・繊細化した結果だと考えられます。「若者たちのコミュニケーションは希薄化している」などとしばしば言われますが、さまざまな調査を見てもそうした結果は見受けられないどころか、その逆の傾向をうかがわせています。もちろんこれはケータイの影響です。コミュニケーションの総量は携帯電話を持つことで格段に増え、さらにTwitter、Facebook、LINEとツールも増えてきました。
そうした環境ではさまざまな炎上リスクが顕在化しました。数年前に相次いだバカッター問題(飲酒運転などの犯罪告白ツイート)などは極端な例ですが、目立つことがすなわち社会的なリスクだと感受されている傾向があります。
それは、従来の同調圧力とは少々ニュアンスが異なります。「みんなと同じようにしなければならない」というのが同調圧力ですが、そうではなく「目立たないようにしなければいけない」というものです。「スクールカースト」という言葉が広がったのも2000年代後半からですが、ヒエラルキーのトップに立つことはそこから引きずり降ろされるリスクを常に持つようなものだと認識されているわけです。派手なギャルスタイルは、外見そのものがリスクだと認識されているのです。
日本は受験を重視するなどむかしから減点法的な社会ですが、現在はその減点の度合いが大きくなっている印象を受けます。炎上リスク回避は、こうした日本社会に対する処世術ではありますが、非常に消極的な選択であることも間違いありません。そして、本当にそれで中長期的にリスクを回避しているかどうかも微妙なところです。マイナスを避けているだけでは、プラスに転ずることはないからです。
痛いギャルと痛くないオタク
次に挙げられるのは、ギャルのネガティブイメージの浸透です。近年のギャル文化を振り返ったときに決して見逃せないのは、2006~07年のケータイ小説ブームと『小悪魔ageha』人気、さらにはバンギャと呼ばれるヴィジュアル系ファンとの類似性です。
ケータイ小説はレイプや恋人の死といった悲恋を売りにし、『小悪魔ageha』は誌面でネガティブな“病み語り”を全開にし、さらに内向的な傾向の強いヴィジュアル系ファン(バンギャ)とも合流していきました(彼女たちは、そもそもホストとヴィジュアル系という類似した男性嗜好でした)。“病み語り”などはギャル同士(読者モデルと読者)のコミュニティを深めはしたものの、こうしたことによって、一般的には00年代中期以降に「ギャルは痛い」というイメージが強まっていきました。
これらと同時に生じていたのは、AKB48を中心とするアイドルブームとオタク文化のさらなる浸透です。AKB48はさまざまなタイプがいましたが、篠田麻里子や板野友美が卒業し、最近は目立ったギャル系のメンバーは存在しません。今年の総選挙でトップに立ったのがオタク(腐女子)としても知られる黒髪の渡辺麻友であったように、オタク文化はさらに人口に膾炙する状況を見せています。アイドルもオタク文化におけるセクシュアリティもそもそもは保守的なものですが、それが強く支持を集めているのが現状です。
ギャルは痛くてオタクは痛くない――そうした認識は広く共有されつつあります。20年前に考えられなかったことです。
ギャルの未来
ギャル雑誌の退潮とギャル文化の退潮は、もちろん相互に作用して進んできたものです。さらにそこには読者/消費者が行き交う物理的な空間と、消費行動をする空間という環境変数も加わってきます。社会学者の成実弘至とW・グリスウォルドの知見を援用してそれらを構図化すると、以下のようになるでしょうか。
2000年に施行された改正大店法により、00年代中期から消費空間の中心は郊外のショッピングモールに移り、00年代後半にはスマートフォンによってSNSやブログの影響がさらに強まったのです。この構図は、ファッションだけでなくさまざまな若者文化に適用することもできるでしょう(たとえばオタク文化にも)。
最後に、こうしたギャル文化の未来について簡単に触れておきます。ギャル文化にはいくつか新しい兆候も見られなくはありません。
ひとつが、衰退に繋がるギャルのネタ化です。映画『下妻物語』で土屋アンナが演じたレディースや、あるいは男子キャラであれば阿部秀司の『エリートヤンキー三郎』で描かれたヤンキーのように、希少性が高まればその存在は「変わり者キャラ」として見なされ、ネタとして扱われるようになります。そしてその果てには、氣志團のように現実とは離れて自律するシミュラークルと化します。それは逆に現実社会からはヤンキーがほぼ消えていること意味します(※1)。最近単行本が出た鈴木健也のマンガ『おしえて! ギャル子ちゃん』には、じゃっかんその兆候を感じなくもありません。
次に、再興に繋がることとして挙げられるのは、ヴィジュアル系との合流によって生じている「V系ギャル」のさらなる浸透です。オタク気質の強かった従来のバンギャとは違い、ヴィジュアル系のファッションをカジュアルに取り込むスタイルです。既にアッシュ系の金髪にしている女性が散見されるように、爆発的な拡大をうかがわせる萌芽は見えています(本当に拡大するかどうかはわかりませんが)。
最後は、もうちょっと先に予想されることです。コギャル世代の先頭は30代後半に差し掛かっており、母親になった元〈コ〉ギャルも少なくありません。たとえば1977年生まれの女性が24歳の2001年に出産したと仮定すると、その子供は2017年に高校に入学することになります。子供が親の影響をどれほど受けるかはわかりませんが、〈コ〉ギャルチャイルドによってギャル文化が再興する可能性もないとは言えません。
若者文化は自動的に成員が入れ替わり、経済や社会状況によって文化は大きな影響を受けるので、今後ドラスティックな変化を見せる可能性もあります。ギャル文化がヤンキー文化のように完全に衰退するか、それともここから盛り返すか、いまはまだ見えない状況にあります。