鎌倉幕府といえば源頼朝だけじゃなかった! 幕府創設に携わった中心人物5人集
2022年1月9日からNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送される。鎌倉幕府が成立したのは、守護・地頭の任命を許可する文治の勅許が下された文治元年(1185)のこととされている。その際、創設に関わった重要人物を5人を取り上げておこう。
■大江広元(1148~1225)
鎌倉幕府では、公文所別当および政所別当に起用された。公文所別当は、公文書を扱う役所のトップである。兼務した政所別当は、幕府の財政と鎌倉市中の非御家人・雑人の訴訟を扱う役所のトップである。
朝廷で実務を担っていた広元は、頼朝の信頼が非常に厚く、御家人の訴えを頼朝に取り次ぐ役も任されていた。こうして広元は、頼朝の側近として重用された。
さらに、守護・地頭の制度の設置にも関与し、貢献した。幕府での序列は、北条時政・義時父子に次ぐ3位だった。まさしく幕府の基礎を築いたのだ。
承久3年(1221)に承久の乱が勃発すると、京都攻めを進言して、幕府を勝利に導いた。なお、広元の子孫が戦国大名の安芸毛利氏である。
広元には、成人してから涙を流したことがないという逸話がある。冷静で情に流されない人物だったと考えられる。
「鎌倉殿の13人」では、栗原英雄さんが演じる。
■三善康信(1140~1221)
鎌倉幕府では、問注所執事に起用された。問注所執事とは、関東の訴訟を取り扱う役所のトップのことである。康信の母は、頼朝の乳母の妹だったので、重用されたと考えられる。
官僚としての能力が高かった康信は、自宅に問注所を構え、それが幕府の文庫的な役割をも担ったという。そもそも三善氏は、文筆をもって朝廷に仕えていた。
頼朝が上洛した際は鎌倉の留守を預かり、承久の乱では大江広元とともに主戦論を唱えた。康信の没後、問注所の執事は子孫が代々務めた。
「鎌倉殿の13人」では、小林隆さんが演じる。
■和田義盛(1147~1213)
鎌倉幕府では、侍所別当に起用された。侍所別当とは、御家人の統制と鎌倉市中の警備を行う役所のトップである。
義盛は頼朝が反平家の兵を挙げたとき、積極的に協力したので頼朝に重用された。奥州藤原氏の征伐でも、大いに軍功を挙げた。頼朝にとっては、頼りになる存在だったのだ。
建仁3年(1203)の比企氏の乱では活躍し、2代将軍の頼家の幽閉にも関わり、3代将軍として実朝が擁立された際にも貢献した。
頼朝の死後、義盛は宿老として北条氏との関係を保ちつつ、梶原景時の追放を主導するなど、幕府で大きな存在感を示した。ところが、建保元年(1213)に北条氏と対立して挙兵したが、奮戦虚しく敗北し、一族もろとも滅亡した。
義盛は武勇に優れており、御家人からの支持は厚かったが、反面、思慮に欠ける言動が見られたという。
「鎌倉殿の13人」では、横田栄司さんが演じる。
■一条能保(1147~97)
鎌倉幕府では、頼朝の舅だった北条時政に次いで、京都守護に起用された。京都守護とは、京都での御家人の統率、洛中の警備、裁判、朝廷との折衝、京・鎌倉間の連絡を担当する職務である。
能保は五摂家の一条家とは、別系統の一条家の出身である。頼朝の同母妹を妻にしたと考えられており、その縁から重用された。能保は京都にあって、頼朝に貴重な情報を伝えていたのだ。
娘は後鳥羽天皇の乳母、関白・九条兼実の子・良経の妻になり、また西園寺公経を婿とするなどして、朝廷との関係を強固なものとした。しかし、頼朝の死後、その子孫は朝廷から追われることになった。
「鎌倉殿の13人」では、現時点でキャスティングが確認できず、登場するかは不明。
■天野遠景(生没年不詳)
鎌倉幕府では、鎮西奉行に起用された。鎮西奉行とは、鎮西(=九州)を統治するために設けられた鎌倉幕府の出先機関である。九州全土の武士統轄権を有した。
遠景は頼朝の挙兵に従い、範頼(頼朝の弟)とともに平家追討に貢献した。その軍功が認められ、初代の鎮西奉行に任じられたと考えられる。また、頼朝と相撲や狩りを通じて、信頼関係を築いたと言われている。
晩年は九州における寺社などの抵抗に遭い、ついに奉行職を解任された。建仁3年(1203)の比企氏の乱では、比企能員を殺害した。とはいえ、その生涯には不明な点が多く、生没年は不明である。
「鎌倉殿の13人」では、現時点でキャスティングが確認できず、登場するかは不明。
■まとめ
今回は、あくまで鎌倉幕府の要職に就いた人物に限って紹介した。来年に放映されたら、私もどんどん論評する予定なので、大いに楽しみにしていただきたい。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】