"ミスター社会人"が現場に復帰。西郷泰之の劇的野球人生 その2
2003年の都市対抗も優勝を果たした西郷だが、04年にはチームが激震に見舞われた。三菱自動車本社の不祥事による、チームの活動自粛だ。西郷は明かす。
「5月の京都大会までは出場したんですが、そこから05年の3月まで活動停止ですよ。体調と気持ちをどうやって維持していけばいいのかわからず、チームも荒れましたよね。優勝した京都大会にしても、活動停止が決まっていての参加です。意見の食い違ったバッテリーがイニング間につかみ合いのケンカをしたり……」
対外試合どころか、チームとしての練習もない。その間西郷自身は、真夏につなぎを着てトラックの下にもぐり、気の荒い運転手に「早くしろ」とすごまれながら、エンジンオイルを交換したり、社業に没頭した。メンバーは全員、似たり寄ったりの経験をしたから、05年3月に活動を再開したときには、「やってやろうぜ!」と一丸になったという。その05年、三菱ふそう川崎が都市対抗を制覇したのは、なかなかできすぎのストーリーだ。
「予選は"絶対に負けられない"という気持ちでしたから、第1代表で本大会出場を決めたときにはみんな泣いていました。そして本大会の優勝では、全員が笑えた。いいチームだな、と思いましたよね」
だが……あみだくじに、もう1本。三菱ふそう川崎の、08年限りの休部が決まる。都市対抗で3回優勝を果たした強豪であっても、経営合理化のためにそうする企業は、当時もいまも少なくない。西郷が回想する。
「正式に休部という話を聞いたのは、08年の1月です。当時で35歳でしたから、おそらく、現役として最後の年になるだろうと考えました。ただ、燃え尽きようと思う一方では、"できることなら、続けられる限り野球がしたい"という気持ちがあったのも事実です」
その08年。目標を見失い、なかなかエンジンがかからなかったチームだが、最後の都市対抗に出る、という意地が支えになったのか。なにより三菱には、活動自粛のあと、すぐに全国制覇した底力がある。「休部が決まっていますから、都市対抗に出られるような戦力じゃないんですよ。人数も少ないから一人がいくつものポジションを兼ね、練習も倍やらなければならない。試合になったら足をつりながらプレーしていました」(西郷)。そういう、最後の年。三菱ふそう川崎は、神かがり的な力を発揮して都市対抗出場を果たしている。
長野久義が待つHondaに転籍
西郷はその後、Hondaの安藤強監督(当時)から、「ウチのユニフォームを着て本塁打記録を塗り替えてみろ」と誘いを受け、転籍しての現役続行を決めた。なにしろ、「野球に対して執念深い」のだ。やめるのは簡単、いつだってできる。ただ、せっかく続ける道があるのなら、精一杯やってみよう……。この年、ロッテからドラフト指名された長野久義が、入団を拒否してHondaに残ったのは、「都市対抗で優勝したいし、西郷さんといっしょにプレーするのが楽しみだった」のも大きな要因だったという。
そして、転籍した09年の都市対抗。長野が三番、西郷が四番を打ったHondaは、13年ぶりの優勝を飾ることになる。西郷にとって、6度目の優勝だった。
15年、現役を引退したあとの西郷は、こんなふうに語っていたものだ。
「25年間……長いんですけど、アッという間でした。43歳まで続けた人もあまりいないでしょうが、ずっと社会人でやってきて、困ったところでは決まってだれかが手をさしのべてくれた。そういう出会いが、一番印象的ですね。4年目に補強されたこと、95年の代表入り、Hondaへの転籍……。自分が得たものを、いつかお返しする機会があればと思いますが、いまは会社員として社業が第一です」
そして昨年末、09年の都市対抗優勝時の主将・岡野勝俊新監督とともに、ヘッドコーチに就任。西郷のいう"いつか"が、わずか1年で訪れたわけだ。西郷は、抱負をこう語ったという。
「現役のときよりも責任は重い。多くのメンバーが入れ替わり、知らない選手もいるので、一人一人とコミュニケーションを取りながら、いい方向に導いていきたい」
さてさて、指導者・西郷は、あみだくじにどんな1本を書き加えるのか。ワタクシゴトながら、例年恒例の社会人チーム取材をそろそろ始める時期。皮切りはHondaの予定です。