【戦国こぼれ話】失明した伊達政宗を力強く支えた片倉景綱と2人の友情
先日、最新の技術を駆使して、伊達政宗の顔が復元され、国際センター駅(仙台市青葉区)で展示されている。こちら。政宗は中途で右目を失明したが、その政宗を支えたのが片倉景綱である。2人の友情を掘り下げてみよう。
■失明した伊達政宗
永禄10年(1567)、伊達政宗は輝宗の子として誕生した。幼名は梵天丸である。天正5年(1577)に元服し、政宗と名乗った。しかし、政宗はわずか5歳のときに不幸に見舞われた。
政宗は天然痘に感染し、片目を失明してしまった。天然痘は疱瘡、痘瘡ともいい、感染者の半数近くが亡くなるという、恐ろしい病だった。仮に治っても、膿疱(膿の盛り上がり)の跡の瘢痕(「あばた」のこと)は残ることもあった。
伊達家の家臣は、政宗の片目が見えないのは生まれつきではなく、疱瘡によるものだと証言している。幼かった政宗は、片目を失明したことに強いコンプレックスを抱いていた。無理からぬところだろう。
しかし、成長した政宗は、僧の虎哉宗乙(こさいそういつ)から学問の手ほどきを受け、武将にふさわしい教養を身に付けた。長じて伊達家の当主となり、仙台藩祖になったのは周知のことである。
■政宗を支えた片倉景綱
失明した政宗を支えたのが片倉景綱である。景重の次男として誕生。父は置賜郡永井庄八幡神社(現在の成島八幡神社)の神職を務めていた。幼少時に両親を亡くし、異父姉の喜多により養育された。
永禄10年(1567)、伊達輝宗に嫡子・政宗が誕生すると、姉・喜多は政宗の乳母を務めた。同時に景綱も輝宗の徒小姓となる。これが2人の邂逅のきっかけとなった。
天正3年(1575)頃、片倉景綱は政宗の傅役として登用され、常にその近くにあった。景綱が10歳ほど年長であったとはいえ、教育係に抜擢されたことは異例のことだった。
以後、政宗が関わった戦いでは、伊達成実と景綱が中心的な役割を果たし、2人は「天下の名陪臣」と称されたのである。
先述のとおり、幼い頃の政宗は右目を患っており、そのことを気にしていたため、性格が暗い少年であったという。景綱は政宗の性格を直すため、政宗の右の眼球を短刀で抉り出した(諸説あり)。
この逸話の信憑性はともかくとして、2人には主従関係を超えた信頼性が芽生えていたのはたしかである。政宗は景綱の献言に対しては、よく耳を傾けていたといわれている。
■まとめ
景綱が政宗の右目を抉り出したか否かは別として、景綱は片目を失った政宗をよく支えた。伊達家の発展の陰には、景綱の大きな貢献があったのである。