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上杉謙信死す!上杉景勝と景虎が上杉家の家督を争った御館の乱の真相とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
春日山城跡。(写真:イメージマート)

 現在、米沢市上杉博物館で没後四〇〇年記念特別展「上杉景勝と関ヶ原合戦」が開催されている。今回は、上杉景勝と景虎と争った御館の乱について考えてみよう。

 天正6年(1578)に上杉謙信が亡くなると、養子の景勝(長尾政景の子)と同じく景虎(北条氏康の子)が上杉家の家督をめぐって争った。これが御館の乱である。御館とは、春日山城下にある関東管領館のことで、謙信が政務を行っていた建物である。

 謙信は妻を迎えることなく、生涯を独身で通した。当時としては珍しいことであるが、その理由は不明である。なお、「謙信女性説」は、根拠のないデタラメである。とはいえ、謙信は後継者問題を解消する気持ちがあったので、養子を迎えていたのだ。

 景勝と景虎が上杉家の家督を争ったのは、謙信が後継者の指名をしていなかったのも大きな要因だった。ただし、謙信が後継者の指名をしなかった理由はわからない。

 謙信の没後、景勝は春日山城(新潟県上越市)に入り、景虎は御館(同)に拠って戦った。この戦いは、景虎が籠った御館にちなんで、御館の乱と称されている。

 当初、景虎は北条氏政(氏康の子)に援軍を要請し、春日山城下に放火するなど戦いを有利に進めていた。ところが、甲斐の武田勝頼が景勝に与すると形勢は逆転し、景虎は景勝といったんは和睦することになった。しかし、この和睦は長く続かなかった。

 翌天正7年(1579)2月、景勝は御館に総攻撃を開始した。景勝の猛攻により、御館はついに落城した。結局、景虎の正室は自害し、景虎の嫡男は上杉憲政とともに御館を脱出したが、逃亡する途中で殺害された。

 景虎は北条氏を頼りして小田原城(神奈川県小田原市)に逃亡したが、かつて配下にあった堀江宗親の裏切りにより殺された。こうして景虎とその一族は、すべて殺害されたのである。

 通常、家督を継ぐ実子がいない場合は、養子を迎えるのだが、謙信はなぜか2人も養子を迎えた。加えて、謙信はどちらを家督に据えるか決めていなかったので、御館の乱という未曽有の事態を引き起こしたのである。。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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