【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼朝も驚いた。「建久7年の政変」における九条兼実の失脚
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではあまり目立たないが、源頼朝の盟友の九条兼実は重要人物である。今回は兼実が失脚した「建久7年の政変」について、詳しく掘り下げてみよう。
■源通親の台頭
源頼朝は、九条兼実と親交が厚く、大いに頼りにしていた。建久6年(1195)、2人は面会して強固な関係を改めて確認したほどだった。しかし、兼実の立場は徐々に悪くなっていった。
源(土御門)通親は、後白河法皇の近臣として台頭した。兼実が朝廷を掌握して以降、通親は丹後局(後白河の寵妃)、宣陽門院(丹後局の娘)と協力し、兼実に対抗しようと画策した。
同年、頼朝は娘の大姫を後鳥羽天皇の後宮に入れようとしたが、これを阻んだのが通親らの勢力だった。
この頃の通親は、養女の在子を後鳥羽の後宮に入れることに成功した。やがて、在子は第一皇子となる為仁(のちの土御門天皇)を生んだ。これにより、通親の朝廷における地位は、兼実を凌駕するに至った。
■通親の兼実排斥運動
権勢をほしいままにした通親は、丹後局、承仁法親王(後白河の皇子)とともに、兼実を排斥しようと画策した。
建久7年(1196)11月、通親は兼実が陰謀を企んでいるとし、関白、氏長者の地位を剥奪した。その後、兼実に代わって、近衛基通に交代させたのである。
それだけではない。兼実の弟で天台座主の慈円、同じく太政大臣の兼房もその地位を追われ、兼実の娘の中宮任子も内裏から退いたのである。兼実の一族は、ことごとく失脚したのだ。
通親は兼実らを追放することで、朝廷での権勢を保持することになり、自らの息が掛かった人物を次々と任官させたのである。これが、「建久7年の政変」の流れである。
■困った頼朝
通親が巧みだったのは、この一件に幕府を介入させなかったことだ。通親は頼朝を欺くべく、京都守護だった一条高能(能保の子)を参議に任じ、幕府と関係が深い西園寺公経(能保の女婿)を蔵人頭に起用した。
建久8年(1197)、一条能保が亡くなったので、頼朝の意向を朝廷に伝えるのが困難になった。同年、通親は天皇の外祖父となるべく、為仁の即位を提案した。幕府は反対したが、翌年1月に為仁(土御門天皇)は即位したのである。
為仁の即位と同時に、後鳥羽上皇の院政がはじまった。これにより、通親は院別当となり、朝廷における絶大な発言権を掌中に収めたのである。
■まとめ
京都の政情は大きく変化し、大姫も亡くなった。頼朝は次女を後宮に入れようとしたが、頼みの高能が亡くなったので、この話も頓挫した。頼朝は兼実と連絡し、上洛の準備を進めていたが、その最中に亡くなったのである。