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地元警察から銃撃を受け、生死をさまよいながら再び現地へ。フィリピン最貧困地区の子どもたちを見つめて

水上賢治映画ライター
「子どもの瞳をみつめて」より

 「スモーキーマウンテン」のことをご存知だろうか?

 「スモーキーマウンテン」は、フィリピンのマニラにかつてあったゴミ集積所とその周辺のスラム街のことを言う。

 捨てられたゴミが巨大な山となり、そのゴミが自然発火して常に火がくすぶり、煙が立ち上っていることから、そう名付けられた。

 捨てられたゴミの中からリサイクルできるものを拾い、それらを換金して生計を立てる人々がおり、その中には子どもも多くいた。

 もともとのスモーキーマウンテンは1995年に閉鎖されたが、現在も「第2のスモーキーマウンテン」と呼ばれる場所が存在し、そこでは以前と変わらない状況が続いている。

 映画「子どもの瞳をみつめて」は、その「第2のスモーキーマウンテン」と呼ばれるパヤタス地区で、8年以上の歳月をかけて撮影されたドキュメンタリー作品。

 急斜面の岩山でハンマーを振りかざして岩を砕いて鉱物を取り出す作業をする少年、ダイオキシンの影響で水頭症になった少年と少女、過酷な荷物運びの仕事によって背骨が曲がってしまった少年ら、フィリピンの最貧困エリアで生きる子どもたちへと眼差しを注ぐ。

 こう書いてしまうと、子どもの不法労働や貧困の現実を告発した社会派作品と想像するかもしれない。

 ただ、そういった現実を浮かび上がらせながらも、作品は、苦しい現実の中にいながらも決して輝きを失っていない子どもたちの「生」を活き活きと描写。

 子どもたちの「生命力」をひしひしと感じる不思議なパワーに包まれた1作になっている。

 手掛けたのは、これまで撮影監督として数々の映画やテレビ作品に携わってきた瓜生敏彦。

 「スモーキーマウンテン」の取材をきっかけに、生活の拠点をマニラに移して撮影活動を行う彼に初監督作品となった本作について訊く。全六回

瓜生敏彦監督(中央)
瓜生敏彦監督(中央)

マニラのスモーキーマウンテンの現地で受けた衝撃

 はじめに瓜生監督とフィリピンとかかわることになって30年以上が経つ。生活も含めて活動の拠点をフィリピンに置くことになったきっかけはどこにあったのだろうか?

「フィリピンを一番最初に訪れたのは、国際飢餓対策機構の記録映画での取材でのこと。

 確かバングラデッシュ、インド、エチオピア、ケニアといった国をめぐって、最後にフィリピンに立ち寄ったんです。

 その際に、マニラのスモーキーマウンテンに行くことになりました。

 そこで衝撃を受けたというか。

 現地に実際に立ったとき、ひとりのカメラマンとしても、ひとりのドキュメンタリストとしても、撮影の意欲をかきたてられるというか。

 『撮りたい』と心を動かされる瞬間であったり、場所であったり、人であったりというものが目の前に広がっていた。

 ここで自主映画を撮ってみたいとか、ここを題材にしたドキュメンタリー番組を作ってみたいとか、そういう気持ちが湧き出てきた。

 それから、当時の僕は世界に目が向いていた。

 というのも、正直なことを言うと、日本への興味が薄れていました。

 高度経済成長があって、次にバブルの時代があって、日本はとにかく豊かな国だったわけです。

 ただ、僕からすると国全体が平和ぼけして浮足立っている感じで、自分が撮りたいと心動かされるようなものがほとんどなかった。

 でも一歩外に出て、たとえばアフリカに取材にいくと干ばつによる飢餓で目の前で人がバタバタと死んでいく。

 そういう光景を目の当たりにすると、日本にいる場合じゃないなと。世界にこそ撮るべきことがあって伝えるべきことがあると思えてくる。

 そういうことが重なって、海外に拠点を置いて活動してもいいのではないかと思って、中でも衝撃を受けた『スモーキーマウンテン』を取材し続けるならば、フィリピンを拠点にするのが都合がいい。現地にいれば週末の休みとか仕事が空いたときに、すぐに行けるので。

 そんな感じで自然な流れでフィリピンが拠点になっていきました」

「子どもの瞳をみつめて」より
「子どもの瞳をみつめて」より

地元警察から銃撃を受け、生死をさまよう瀕死の重症に

それでもフィリピンに戻った理由

 こう本人は語るが、その間にはひとつ大きな出来事があった。

 記憶にある方もいると思うが、1996年に放送されたNHKのドキュメンタリー「フィリピン、スモーキーマウンテンが消える日」の撮影中だった1995年に、地元警察から銃撃を受け、生死をさまよう瀕死の重症を負った。

 ただ、一命をとりとめた瓜生監督は回復すると再びフィリピンへ。

 最貧困地域のパヤタスとスモーキーマウンテンへ足を運び、四ノ宮浩監督の三部作「忘れられた子供たち/スカベンジャー」(1995年)、「神の子たち」(2001年)の撮影を担当する。

「四ノ宮浩監督の『忘れられた子供たち/スカベンジャー』は、1989年3月から撮影取材がはじまって、1995年に作品は完成して公開されました。

 それから、NHKのドキュメンタリー『フィリピン、スモーキーマウンテンが消える日』に入ったのだけれど、その撮影中に銃撃を受けて……。

 まあ、でも、なんとか回復してフィリピンに戻ったんですけど、さすがにこのときは危ないということで、スモーキーマウンテンを撮影取材することはしばらく控えることにしたんですよ。

 知人からお金を出すから『しばらくは普通の仕事をしたらどうだ』と言われて、『ニュースステーション』みたいな番組をこっちで作りたいといったら、『そんなことしたらまた目をつけられて撃たれるぞ、やめろ』と言われて(笑)、じゃあ、しばらくはニュース報道的なものはやめておこうと。

 ならば、それまでインドネシアのジャングルとかアマゾンとか、いわゆる秘境のようなところめぐる撮影が僕は得意だったので、そっちの取材を主体に仕事をしていこうと思った。

 ところが、僕は例の銃撃を受けて手術をしたときに脾臓を全摘出となっていて、そうすると感染症になりやすいということで、ジャングルとか秘境の取材は実質無理ということが判明した。

 ということで、そういう得意な取材の撮影もあきらめざるをえなかった。

 それでしばらくはお店を開いて経営しながら、スモーキーマウンテンとはあまり関係のないことの撮影の仕事をしていました」

撮影する側だけではなくて、撮影される側の気持ちもよくわかるんです

 そこから少しだけインターバルを置いて再びスモーキーマウンテンの撮影を始め、先で触れた「神の子たち」(2001年)の撮影を担当することになる。

 それにしても、傍から見ると、よくフィリピンに再び戻ったと思うのだが?

「僕は千葉県三里塚の生まれで。

 実家が小川伸介監督や田村正毅カメラマンが寝泊まりする三里塚闘争の拠点だったことで小川プロに所属することになってこの道に入った。

 だから、撮影する側だけではなくて、撮影される側の気持ちもよくわかるんです。

 撮られる側も経験しているから、撮られることで生じる痛みみたいなものがよくわかる。

 だから、撮影が終わったら『じゃあ、さようなら』とはなれない。

 全員は無理かもしれないけれども、出会って深くかかわった人とはそれこそ一生付き合っていくことになると考えていて、その気持ちはいまも変わらない。

 実際、いまも作品で出会ったいろいろな人たちと付き合いが続いている。

 だから、生きるか死ぬかの大変な目には遭いましたけど、フィリピンにはもう戻らないとはまったく思わなかったですね」

(※第二回に続く)

「子どもの瞳をみつめて」ポスタービジュアル
「子どもの瞳をみつめて」ポスタービジュアル

「子どもの瞳をみつめて」

監督:瓜生敏彦 ビクター・タガロ

公式サイト https://子どもの瞳をみつめて.net/

新宿K`s cinemaにて公開中、以後、全国順次公開予定

写真はすべて(C) 2022 TAKION.INC

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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