私的興味の夏の甲子園!(13) 決勝の智弁対決に奈良・小坂将商監督「自分にも意地がありますんで」
「むこうもそうでしょうが、自分にも意地がありますんで絶対に勝ちたいです」
京都国際に3対1で勝ち、先に勝っていた智弁和歌山との決勝対決が実現すると、智弁学園(奈良)・小坂将商監督はそういいきった。そういえば2016年のセンバツで優勝したときには、「智弁というと和歌山を連想する人が多いでしょうが、これで……」と、自分が育った智弁学園へのプライドを語っていたものだ。1995年夏には、四番・主将として4強入り。
「そのベスト4を超えろ、と選手たちにはいってきました。ぼくらの時代とは選手の能力、そしてキャプテンが違います」
と笑わせる。
先に決勝進出を決めた智弁和歌山・中谷仁監督は、97年夏に優勝を経験。阪神などを経て18年夏後に就任した。元プロ野球経験者が、指導者としてアマ球界に復帰することが可能となったのは84年で、元プロとしては08年、常葉菊川(現常葉大菊川)の佐野心監督(元中日)に続く2人目の決勝進出だ。まだ対戦相手が決まっていない段階では、
「ここまできたら、決勝も勝ちたい。勝つと負けるでは大違い、というのを経験していますので……」
それにしても……決勝の、兄弟校対決である。センバツでは72年、兄弟校というばかりではなく、同じ東京の日大桜丘と日大三が決勝で対戦している(日大桜丘○5対0)。だが、夏は史上初めてのことだ。
智弁学園と智弁和歌山は過去、公式戦で4回対戦している。95年秋の近畿大会は和歌山が勝ち、19年春秋の近畿大会では奈良が勝ち。そして02年夏、甲子園で実現した対戦を思い出してみる。
「C」の人文字、アフリカン・シンフォニー
一塁側・奈良のアルプスに、白地に赤で「C」の人文字。和歌山の三塁側アルプスにも、白地に赤で「C」の人文字。胸に赤で「智辯」と入ったユニフォームも、左そでの校章と県名以外はほとんど同じ。そこまでの甲子園の歴史に兄弟校対決は何度かあっても、ほぼ同一のユニフォームとなると83年夏、東海大一(現東海大静岡翔洋)13対11東海大二(現東海大熊本星翔)があるくらいだ。
「そりゃ、やりにくいですわ。できれば当たりたくないけど、負けるのもイヤやしね」と、和歌山の高嶋仁監督(当時、肩書きは以下同じ)がいえば、「本当に当たるとは思わなかった。胸を借りるつもりでいきます」と奈良の林守監督。01年の春まで、高嶋監督・林部長のコンビで97年と00年の2度、和歌山を夏の全国制覇に導いているから、それは“やりにくい”だろう。また、林監督の前に奈良を率いていた上村恭生監督は部長として和歌山へ。上村部長は奈良のエース・田中曜平や主砲・上田耕平ら、林監督は和歌山の主将・岡崎祥昊やエース・田林正行ら、前任校で指導してきた選手たちとの対戦だから、さらに"やりにくい"。
兄貴分は、智弁学園だ。65年の学校創立と同時に野球部も創部し、この時点で春夏合計20回の甲子園を経験している。72年から6年間は高嶋監督が率い、77年センバツのベスト4など、7勝を記録した。弟の智弁和歌山は78年創立で、翌年に創部した野球部は80年に高嶋監督を迎え、そこまで春夏で16回出場。両校のアベック出場も4回あったが、むろん対戦は実現していない。
高嶋監督が和歌山に移ったころ、和歌山は尾藤公監督率いる箕島の全盛期だ。79年に春夏連覇を達成した屈指の強豪に、創部ほやほやのチームが太刀打ちできるわけがない。練習試合すら、どこも相手にしてくれなかったくらいなのだ。だが、
「蔦(文也・池田[徳島]監督)さんは快く相手になってくれ、“尾藤はんを倒しなはれ”とハッパをかけてくれました」(高嶋監督)
そして85年のセンバツに初出場。夏も87年に甲子園の土を踏んだが、なかなか勝てない。センバツ初出場から92年の夏まで、初戦は5連敗だ。だが、蔦監督はこうも語っていたという。
「高嶋はんは“昼行灯”、大石内蔵助や。そのうちに大仕事をする御仁でよ。見とってみなはれ、箕島を倒して天下を取るでよ」
その言葉が現実になるのは、93年夏に和歌山として初勝利を挙げた翌94年センバツだ。横浜(神奈川)や宇和島東(愛媛)、PL学園(大阪)など歴代の優勝校を、そして決勝では常総学院(茨城)を倒して、頂点に立つのである。さらに97年と00年には夏も制覇した。一方の奈良は、上村監督時代の95年夏のベスト4が最高成績だから、実績では“弟”に一歩も二歩も譲っていた。
ただ、02年の夏は、奈良がやや有利と見られていた。県大会5試合で43得点という打線が好調で、甲子園では田中が2試合完封と投打がガッチリかみ合っている。対する和歌山は、全国制覇の翌01年夏、県大会でまさかの初戦敗退。この夏も投手陣が不安定で、1回戦はなんとか延長で振りきったものの、初陣の札幌第一(南北海道)に9回3点差を追いつかれている。「力は、向こうのほうが上でしょう」というのは、高嶋監督のホンネだったかもしれない。
さて、奈良か和歌山か……
8月18日、午前8時31分。関係者、そしてファンが心待ちにした一戦は、第1試合というのに4万人の観衆を集めてプレーボール。試合が動いたのは3回だ。和歌山は1死満塁の絶好機に、岡崎が走者一掃の二塁打を放つと、西村裕治も中前にはじき返して計4点。西村は前年夏、初戦敗退した和歌山大会に出場しており、「負けたその足で学校に帰って練習しました。解散のミーティングをしていた先輩たちに“オマエらは甲子園に行くんやぞ”と声をかけられたのを覚えています」。岡崎にしても同様で、00年の全国制覇時には1年生ながらベンチ入りしていたのだ。この夏に期するものは大きかっただろう。
和歌山はさらに 5回にもスクイズ(記録は内野安打)などで3点を追加。アルプスからはアフリカン・シンフォニー、ジョックロック……といった、名物の応援が流れる。いまやすっかり甲子園の定番になった曲たちだが、もともとは智弁和歌山がハシリだったのだ。この時点で7対0、勝負あった……一塁側ベンチで、高嶋監督の仁王立ちとまったく同じポーズで戦況を見守った林監督は、
「采配の差を見せつけられました。試合に入ったら三塁側のダグアウトが気になり、妙にかしこまってしまって……私自身、高嶋監督の姿に一歩引いてしまうところがありました」
奈良が一矢報いたのは8回だ。県大会の1回戦で左足首を骨折した主将・松山哲也が代打で死球を得ると、これを足がかりに2点。9回にも1点を加え、「松山が出場できるまで勝ち進もう」という結束の力を見せている。兄弟ゲンカに勝った和歌山は、「松山に“頑張ってくれ”と声をかけられた。胸にずしっと響いた」(岡崎)と決勝まで進出。準優勝に終わりはしたが、高嶋監督が「力のないチームが、よくここまでこられました。選手には、ご苦労さんといってやりたいですね」と目を細めたのを覚えている。
過去2勝2敗の公式戦対決。さて、21年夏の決勝は……。