切れやすい老人はなぜ増えたのか
ちょっとしたことですぐ切れる社会
近年、ちょっとしたことですぐカッとなったり、切れやすい人が増えてきたと言われています。電車内で大声で説教する老人、肩が触れただけでいきなり掴みかかってくる若者など、筆者自身もそのような場面に何度か遭遇したことがあります。
生きることの困難性が増し、世の中に息苦しさが蔓延する社会環境のなか、人々の怒りに関する閾値が下がっているであろうことは安易に推察されます。インターネット社会となり相互監視が容易になり、自己の怒りを簡単に世間に対し発信できるツールとしてのツイッターや各種SNSの普及も、切れやすい人々の増加と無関係とは言えないでしょう。匿名環境の中で、人を名指しで非難することの快感を覚える人は確実に増えているはずです。
このような人を気軽に誹謗中傷できる環境が用意されていることで、怒りが増幅するという、ある種の悪意の悪循環が生まれている可能性も否定できません。
一般社団法人日本民営鉄道協会が毎年発表する「鉄道係員に対する暴力行為の件数・発生状況について」を見ると、この15年間で鉄道係員に対する暴力行為は明らかに増加しています。(図1参照)2000年度は年間75件であった暴力行為は、2008年度から急激に数を増やし、2014年度には226件と約3倍に増加しています。これは鉄道係員に対する暴力行為に限定されていますから、乗客同士による暴力行為をこれに加えると、件数は相当な数に上るだろうと推察されます。
加害者の年齢を見ると、40代が最も高く23%で、次いで60代以上(19%)、30代(17%)、50代(15%)、20代(15%)、10代(4%)という順になっています。一般的には、切れやすいのは「若者」と「高齢者」というステレオタイプ的な理解がありますが、電車内の加害者年齢については、利用者の多寡に応じた年齢構成と言っていいかもしれません。ただ他のデータによると、病院職員への院内暴力は60代以上が多い(私立大学病院医療安全推進連絡会議)といった報告もあり、高齢化とともに怒れる老人がボリューム的にも増えてきているのかもしれません。
切れやすい人々が増加した理由
では、なぜこれだけ切れやすい人々が増加しているのでしょうか。おそらく、この原因はひとつではないでしょう。現在の社会情勢に由来する理由もあれば、本人の育った環境や家族構成によるもの、さらには日常の仕事環境や食生活、睡眠状態など、数多くの要因が考えられます。
一般的に、切れることにより表出される感情は「怒り」です。怒りを含む喜怒哀楽の感情の生成は、脳内の神経伝達物質によってもたらされます。ノルアドレナリンとアドレナリンが闘争や拒否反応を生じさせ、交感神経を働かせ、怒りの表出を促そうとします。
ただし人間の場合は大脳前頭前皮質が感情のコントロールをつかさどり、たとえ怒りを感じたとしても、なにか行動を起こしてしまうと、それが社会的に問題を起こしてしまうのではないかとして抑制機能が働き、実際は行動を押しとどめるケースが多いのです。
しかし、それをも押さえることが出来ず、結果として切れてしまう人々が増えているのはなぜでしょうか。これには大きく下記のような原因が考えられます。
- 偏った食生活が原因……砂糖の大量摂取、精製された穀物の摂取が低血糖症を招き、それが不安感やイライラ感の増加を招くと言われています。またグルタミン酸やビタミン、カルシウム不足も怒りやイライラを招きやすくすると言われています。
- 日常の欲求不満が原因……仕事関係のストレスや夫婦関係の不仲が原因で不機嫌となり、その不満のはけ口として、ちょっとしたことがきっかけで怒りが爆発してしまう。
- 役割や立場の喪失が原因……仮に怒りが芽生えたとしても、本人がある種の社会的立場を背負っていれば、世間体も気になり抑制するはずです。しかし、そのような社会的役割が無ければ、周囲の目を気にすることもなくなるでしょう。病院内で職員に切れる高齢者は、おそらくそのようなタイプの方ではないかと思われます。
切れやすい人々は増加していますが、年代別にその原因はおそらく異なるのでしょう。若い人々や中高年層は上記の1や2やが中心でしょうし、高齢者は3が多いのではないでしょうか。加えて、高齢者が怒りに至る理由は、社会的役割の希薄化に加え脳の老化が原因で、先に述べた大脳前頭前皮質のコントロールがうまく機能しなくなるといったことも原因であろうかと思われます。
社会的靭帯の再強化が必要
切れやすい人々の増加をもたらしたのは、個人の理由に帰するものだけではありません。地域コミュニティや人間関係が希薄化し、非正規雇用者が増加し、雇用格差が広がる。就業につけず、社会的役割が与えられない無業高齢者が増えたことなども、結果としてこのような社会環境を生んできたと考えられます。
もともと日本は、世界各国の中でも社会的つながりが弱い国であると言われています。前近代的なムラ社会では、地域コミュニティや家族がつながることにより、機能していましたが、その後急速な都市化が進む中、ムラ社会的な縁は会社縁として残りましたが、それ以外のコミュニティ形成が出来ないまま、いま日本は高齢化社会を迎えようとしています。広井良典は『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)の中で、「個人と個人がつながるような都市型のコミュニティ(…)をいかに作っていけるか」が、日本社会における根本的な課題であると述べていますが、確かにそのとおりだと思います。社会的靭帯の再強化が必要なのです。
日常生活支援総合事業に高齢者の参画を
地域の中において役割を失った数多くの高齢者たち。年金給付はあるので、日々の暮しを送るには問題ないが、人と接触する機会も少なく、日々の生活の充実感を得ることが出来ない高齢者の人々が、切れやすい高齢者予備軍ではないでしょうか。彼らに対して、一定の社会的な役割を提供することが、社会的靭帯の再強化に繋がっていくはずです。
平成30年度から、訪問介護、通所介護の予防給付事業は、「介護予防・日常生活支援事業」として、個々の自治体の創意工夫にもとづき、介護事業者による専門サービスに加えて、地域NPOやボランティアなど、さまざまな担い手によるサービス提供が求められて来るようになってきます。(現在は経過措置期間)
このような日常生活支援事業のサービスの担い手として、地域の元気高齢者の参加が大いに期待されています。元気な高齢者が、身体の弱った高齢者を支える。そのような仕組みが構築出来れば、地域の社会関係資本は豊かになっていくでしょう。
但し、先に述べた社会的つながりが弱い国民性ゆえに、単純に高齢者に対して参加を呼びかけたとしても、そうそう簡単に日常生活支援ボランティアが集まるとは考えられません。何らかの工夫が必要となります。
そのためのヒントとしてひとつ考えられるのは、仮にボランティアであっても、行政の市民活動支援課や社会福祉協議会といった公的セクションが、「地域生活支援協力委員」「地域貢献支援員」などの肩書で正式に委嘱するというプロセスです。人は、一定のポジションを提供すれば、それに相応しい「役割期待」を果たそうとする性質を備えています。このような地域への貢献を委嘱し、彼らに役割を提供することによって、その結果「切れる高齢者」の数も減っていくのではないでしょうか。