セクシュアルマイノリティにとっての東京と地方の落差、トランスジェンダー役を当事者が演じることについて
トランスジェンダーの真也と、シスジェンダーのユイの10年にわたる関係を描いた映画「フタリノセカイ」。
自身もトランスジェンダーである飯塚花笑監督が手掛けた本作は、セクシュアルマイノリティ当事者の現実を伝える作品であることは間違いない。
ただ、ここにきて量産されているといってもいいセクシュアルマイノリティについての映画とはひと味違うというか。
ある意味、抗う作品になっているといっていい。
トレンドや流行とは関係ない。あるフタリの歩みが、なにも特別ではない、わたしたちのすぐそばにある物語として描かれる。
この作品に込めた思いとは? 飯塚監督に訊く(第一回・第二回)。(全四回)
真也には地方で暮らすトランスジェンダーの息苦しさ、
生きづらさ、窮屈さを体現させたところがある
前回の話の中で、今回の物語について「真也とユイという人物が思い浮かんで、彼らの10年間を描いているんですけど、二人を自由に泳がせてみたというか。
脚本を書いている感覚としては、二人に自由に自身の幸せを模索してもらったら、右にいったり左にいったりと右往左往して、こういう物語になっていった」と語った。
今回は、その真也とユイについての話から。まず真也についてこう語る。
「真也は立場としては僕にすごく近い。
トランスジェンダーの男性で群馬の片田舎で実家の弁当屋で働いている。
この設定は、僕が大学を卒業する前の1年間、状況資金がなくて、地元の群馬でバイトしながら暮らしていた当時のことが反映されている。
このときに感じていた閉塞感をいまだによく覚えているんです。なにかの拍子に思い出すぐらいシーンとして記憶に刻まれている。
セクシュアルマイノリティにとって、東京と地方で感じることはかなり違う。
まず地方というか地元だと、人との距離が近い。隣近所すべてが顔見知りが当たり前のコミュニティができていることがめずらしくない。
それで助けられることももちろんあるんですけど、でも反対に関係のわずらわしさや面倒くささが生じることも多々ある。
あと、情報格差が確実にある。
少し上の年代の方々に自分のセクシュアルティについて説明したとします。
そのとき、やはり東京だと詳しくは知らなくてもなにかしら情報に触れていたり、セクシュアリティをオープンにしている当事者に出会っている率が高いので理解してもらえる確率は高い。
一方、地方だとそう情報に触れていない上、オープンにしている当事者と出会う確率も低いから、どうしても『わからない』となってしまう。
僕の経験から言うと、地元の群馬に帰ったときは、面倒だから、自分のセクシュアリティについてほぼ他言することはなかった。隠している方が楽だから。
その息苦しさ、生きづらさ、窮屈さを真也には体現させたところがあります。
真也は地方の町で、もう自分のセクシュアリティを人に説明をすることを諦めて生きている。
でも、ユイという女性に出会って、自分という人間を知ってもらうことと向き合わざるをえなくなってしまった。
真也の中に常にある心の葛藤は、ものすごくかつて自分が味わっていた感覚が入っています」
保育士だった実の母の立場を反映させて生まれたのがユイ
ユイはどうだろうか?彼女は保育士。
この子どもと接する仕事ということがのちのち物語に効いてくる。
「実は、ユイを保育士にしたのは、ものすごくシンプルな理由なんです。
僕の母がかつて保育士だったんです。
そして、母は子どもが大好きで、家庭を持つことが夢みたいな、もうほんとうに絵に描いたような幸せを求めていた女性なんです。
保育士で父親と出会い、無事に子どもに恵まれた。子育ても夢で、それも叶った。
でも、次の段階として『孫の顔が見たいみたい』があったんですけど、僕がトランスジェンダーだったがゆえに………となってしまった。
ユイも求めているのは、結婚をして、子どもを授かって幸せな家庭を築くこと。
もう絵に描いたような夢物語を抱いているんですけど、彼女はトランスジェンダーの男性を愛してしまった。
つまり実の母の立場を反映させて生まれたのがユイになります。
ユイの持っているものすごく『ノーマル』な理想や価値観は、映画の中でがらがらと崩れ落ちることになる。
ある種ユイを残酷な目に遭わせてしまうんですけど、一度壊れたところから新たな気づきや新しい価値が生まれたりすると思う。なので、ユイにはそういうとても一般的な理想を持つ女性になってもらいました。
あと、いま思い出したんですけど、地方で生きているリアリティーとして、結婚や出産がやはり多少早い気がするんですよね。
僕の周りの友人の女の子もすでに結婚して出産している子がけっこういる。
もちろん全員が全員そうではないですけど、なにか仕事で大きなことを成し遂げようというより、早く結婚して家庭に入りたいみたいな子もけっこう多い。
で、地方で働くことを考えたときに、彼女たちの仕事の選択肢に、保育士は必ず入ってくるんですよね。
その地方のリアリティーを自然と入れ込もうとしていたかもしれないです」
素直でまっすぐなところが、僕の中では片山さんとつながった
ユイは、現在注目の若手女優、片山友希が演じている。
彼女に決めた理由をこう明かす。
「ユイに求めたのは、いい意味でのピュアさ。うぶで世間知らずな感じがほしかった。
まだ社会に出たばかりで、仕事においてもプライベートもまだ厳しいことを経験していない。
ユイはおそらくここまであまり大きな出来事にも直面しないで、ここまで順調に歩んでこれた女の子だと思うんです。
おそらくトランスジェンダーの人が自分の身近なところにいることも想像していない。
そういうユイのまだ何も知らずに素直でまっすぐなところが、僕の中では片山さんとつながったんです。
それで片山さんがいいなと考えました」
真也は、正直、当事者に演じてもらいたい思いがひとつありました
では、真也役の坂東龍汰は、どこにひかれたのだろうか?
「最初はすごく悩んだんですよ。
まず正直なことを言うと、当事者に演じてもらいたい思いがひとつありました。
いまハリウッドでもトランスジェンダーはトランスジェンダー当事者が演じるべきという論争もおきていますし、日本でも声を上げ始めてる関係者が一定数は
出てきてます。僕自身、当事者が演じるに越したことはないと思っている。
けど、『トランスアメリカ』という映画が大好きなんですけど、この作品は、フェリシティ・ハフマンという女優さんがトランスジェンダーの女性を演じている。
これをみたときに、圧倒的にトランスジェンダーよりトランスジェンダーらしいって思ってしまった。これはトランスジェンダーのステレオタイプを演じているという意味ではなくて、どうみてもトランスジェンダーにしか見えない。
お芝居って、ときに当事者性を超えるものなんだよなと思ったんですよね。
そして、坂東くんに決めたのは、これはトランスジェンダー当事者じゃないとわからないかもしれませんが、坂東くんの声ってトランスジェンダーっぽいんですよ。
実際にあった3年ぐらい前だと、よりトランスジェンダーっぽい声だった。見た目もちょっと中性的なところがある。
そういう要素から真也は彼だなと思いました。
そして、トランスジェンダー当事者ではない人がトランスジェンダーを演じることは、彼と僕とで綿密に役作りをすることによって、のり越えていけると思いました」
(※第四回に続く)
「フタリノセカイ」
監督・脚本:飯塚花笑
出演:片山友希 坂東龍汰
嶺 豪一 持田加奈子 手島実優 田中美晴 大高洋子
関幸治 松永拓野 / クノ真季子
全国順次公開中
写真はすべて(C)2021 フタリノセカイ製作委員会